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第10話 まさかの自慰
どこからか、すごくいい匂いがする。食べ物じゃなくて、香水みたいな作られた匂いって感じでもなくて……そうだ、これはいっちゃんの匂いだ。
オレはきっと、生まれたときからこの匂いを嗅いでいたに違いない。だからいっちゃんの匂いを嗅いだらホッとするし、誰のそばにいるときよりも安心できる。この匂いを嗅ぐだけで、いつだってオレは安心して眠ることができた。
「…………あれ?」
目が覚めたら、いっちゃんの部屋だった。いい匂いがしていたのは、オレがいっちゃんのベッドに寝ているからだ。
(……オレ、いつ部屋に来たんだっけ……?)
ぼんやりと記憶を辿っていたら、大学で気持ち悪い男に声をかけられたことを思い出した。慌てて腕を見ると、うっすら赤くなっているところがある。よーく見たら、赤い部分が少しだけ人の指っぽい形に見えた。
「……げ」
跡がつくくらい掴まれていたってことだ。ただでさえ気持ち悪い男だったのに、こんな跡が残るなんて最悪だ。
「目が覚めた?」
「……っ」
聞き慣れているはずの声に、体が勝手にビクッとする。声がしたほうを見たら、いっちゃんが部屋に入ってくるところだった。少しずつ近づいてくるいっちゃんに、また体がブルッと震える。
そんなオレに気づいたのか、いっちゃんが少しだけ笑った。それからゆっくり近づいてきて、ベッドのそばにしゃがみ込んだ。
「僕のこと、怖い?」
床に座っているから、寝たままのオレからもいっちゃんの顔がよく見える。だから、笑顔だけど困っていることもちゃんとわかった。
「怖いなら出て行くよ」
眼鏡の奥にあるいっちゃんの目が悲しそうに見えた。そう思った途端にオレの胸までズキズキしてくる。だって、いっちゃんが悲しいとオレまで悲しくなってくるんだ。
オレはタオルケットを口元まで引っ張ってから、いっちゃんにバレないように小さく深呼吸をした。一回、二回……、うん、もう怖くない。体も震えていない。
「……怖くなんか、ないって」
「本当に? 無理してない?」
「無理なんかしてない。っていうかオレ、いっちゃんに嘘ついたりしねぇし」
「そうだね。圭人 は僕に嘘つかないんだった」
「だろ? だから、本当に怖くない」
念を押すようにそう言ったら、いっちゃんがいつもどおりの笑顔になった。
大学で見たときはなぜか怖いと思ったけど、いまはもう怖くない。だから、嘘はついてない。それに、いっちゃんには笑顔のほうが似合っている。オレのせいで悲しい顔なんてしてほしくなかった。
「どこか痛いところは? 気持ち悪いところとかない?」
「腕に変な跡がついてたけど、ほかは大丈夫」
「……これか」
オレはタオルケットから腕を出して、ちょっと赤くなったところをいっちゃんに見せた。それを見たいっちゃんが眉を寄せて低い声を出したけれど、今度は怖くなかった。それどころか、ますますいい匂いがしてきてホッとしたくらいだ。
「そのうち消えると思うから平気。……あのさ、あの気持ち悪い奴、どうなった?」
「体調が悪くなったみたいだったけど、貴志くんが医務室に連れて行ったから大丈夫じゃないかな」
「たかしくんって……」
「僕と同じ研究室の相川美咲さん、覚えてる? 彼女の彼氏の貴志くん」
美咲さんのことなら覚えている。大型連休にいっちゃんについて行った九州旅行で、一番しゃべった研究室の人だ。美人でボーイッシュでハキハキしていて、楽しい人だった。そういえば、昨年の旅行でいっちゃんが仲良くなった人と付き合っているって話していたのを思い出した。
「あれ? でも美咲さんの彼氏って、秩父にいるって言ってた気が……」
「仕事で都内に来たついでに、相川さんに会いに来たらしいよ。彼女の住んでるマンション、圭人 の通ってる大学を通り抜けると駅からの近道になるらしいんだ」
それであんなところにいたのか。
「そっか。それにしても、すごい偶然だね」
大学で、しかも変な奴に絡まれていたところに出くわすなんてものすごい確率だ。……そっか、それを言うならいっちゃんもだ。
「それにいっちゃんまで現れたから、オレびっくりした」
「そうだね」
そう言ったいっちゃんの顔から笑顔が消えた。一瞬ドキッとしたけど、別に怒っているようには見えない。というよりも、何か考え事をしているように見える。……もしかして、たかしくんっていう人とはあまり仲が良くなかったんだろうか。
(ちょっとしか覚えてないけど、結構親しく話してたような気がするんだけどな……)
「いっちゃん、どうかした?」
「うん? あぁ、ごめん。ちょっと考え事をしてて」
「考え事?」
「うん、貴志くんと相川さん、近々同棲するって言ってたから、お祝いとかあげたほうがいいのかなって」
「え!? 同棲!? マジで!?」
うっわ~、同棲とかマジで憧れる。オレの周りにも彼女とほぼ同棲状態の奴がいるけど、いっつも惚気ているし正直羨ましいってずっと思っていた。「いつも一緒だとケンカもしょっちゅうだ」なんて言っているけど、それだって惚気だろってみんなで突っ込んだくらいだ。
「圭人 は、同棲ってどう思う?」
「え? 恋人ならいいんじゃねぇ? っていうか、オレもちょっと憧れてるし」
オレの返事にいっちゃんがにこりと笑った。
「そっか、圭人 は同棲したいほうだったか」
「憧れるの、オレだけじゃないからな? それに大学生になったら同棲したいとか、大体の人が夢見ると思うんだけど」
「圭人 も?」
「そりゃあオレだって……」
同棲したいかと言われたら、したいと即答できる。でも、同棲する相手がいない。というより、いまは彼女と同棲するよりいっちゃんの部屋に泊まりに来るほうが楽しいから、同棲したい気持ちはあんまりなかった。
「同棲はしてみたいけど、いまはいっちゃんの部屋に泊まるほうがいいかな」
「……そっか」
いっちゃんがにこって笑ったと思ったら、またいい匂いがふわっと広がった気がした。
いっちゃんの匂いは、本当に嗅ぐだけでホッとできる。さっきまであんなに怖かったのに、嘘みたいに気持ちがほどけていく。
そんなことを思いながら、大好きな匂いをゆっくりと吸い込んだ。やっぱりふわっとしていて、何の匂いかわからないけどいい匂いがして、気持ちが落ち着いて……どうしてか、体の奥がぞわっとした。
(……これって、ホッとするほうの匂いじゃない!)
慌てて息を止めたけど、遅かった。
どういうことかわからないけれど、いっちゃんのいい匂いには二種類ある気がする。一つはホッとして眠くなる匂いで、昔から何度も嗅いできた匂いだ。それとは別に、最近気づいたのがムラムラしてしまう匂いだった。
ムラムラする匂いもいい匂いなんだけど、これを嗅ぐと体の奥がぞわっとして熱くなってくる。そうするとムラムラしてきて大変なことになるんだ。おかげで、いっちゃんの部屋で何度も抜くハメになった。だから匂いを嗅ぐときは気をつけようって思っていたのに……。
(やばい……!)
気づくのが遅かったせいで体が熱くなってきた。それだけじゃなく下半身にも熱が集まってきて、ますますムラムラが止まらなくなる。
いつもならすぐにトイレに避難したりするんだけど、寝ているからそれもできない。「ダメだ、落ち着け!」って焦れば焦るほど、ムラムラが強くなって股間が熱く疼いてしまう。
(こんなの、いっちゃんにバレたらやばいって……!)
オレはどうにかしないとと必死に考えた。そうして大学で汗をたくさんかいていたことを思い出した。
「い、いっちゃん、オレ汗かいたし、シャワー浴びたい」
とにかく、まずはいっちゃんに部屋を出て行ってもらわないといけない。ついでに風呂に入れば股間を見られることもないし、そのまま抜くこともできる。
「じゃあ、温度上げてタオル用意してくるから。着替えが入ってる場所、わかるよな?」
「も、もちろんっ」
いっちゃんが部屋を出て行くのをしっかり確認してから、急いで飛び起きた。着替えを棚から引っ張り出して、さりげなく股間を隠しながら風呂場へ行く。いつもは脱衣所に鍵なんてかけないけど、念のために鍵をかけてから服を脱いだ。
変な汗をかいたシャツが肌に張りついてうまく脱げない。モタモタしながらようやく脱ぎ捨て、最後にパンツを脱いだら、ビン! って勢いよくちんこが飛び出した。気のせいじゃなければ、先っぽが少し濡れている気がする。
(マジか……)
手元の温度を少し下げて温めのシャワーを浴びた。そうすれば落ち着くかと思ったのに、オレの股間は全然収まる気配がない。むしろ、いっちゃんが使っているボディソープだとかシャンプーだとかの匂いがして、ますます元気になってしまった。
(いっちゃん、ごめん……!)
心の中でひたすら謝りながら、オレはいっちゃんの匂いで抜いていた。しかも一回じゃ収まりきらなくて、二回も抜いてしまった。出したあと、「オレってそんなに欲求不満なのかよ……?」なんてぼんやり思ってしまった。
たしかに昨日は抜いていないけど、その前の日は抜いている。たった二日しか経っていないのに匂いだけでこんなにムラムラするなんて、オレってそんなに性欲が強かったっけ……なんて真剣に考えてしまった。
そんなことをしていたせいで、オレはどうしていっちゃんが大学にいたのか聞くことをすっかり忘れてしまっていた。
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