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第13話

だれかを失神するまで犯したのは初めてだ。 両手を縛り上げた体があっけなく倒れ込む。反射的に抱き止め、静かに下ろす。 「……やりすぎたか?」 憔悴しきった理一を布団に寝かせ、すみやかに後始末をすます。 ほどいた縄を回収し、ずれた目隠しを剥ぎ取り、湯に浸した手拭いを絞り体を浄めていく。 服は汚れていたので浴衣に着替えさせたが、これが案外手間取った。意識のない人間に服を着せるのは難しい。 襟元を申し訳程度にかきあわせたのち、卓上のメモを一枚破き、ボールペンでメッセージを書き記す。 「よし」 ボールペンの尻を押して芯を引っ込め、吐き捨てる。 「ほんっま、うざいわ」 十年前、初めて会った時から理一に対する印象は変わらない。コイツはうんざりするほど真っ直ぐなお人好しで、本来責任を感じなくていい事柄まで馬鹿真面目に背負い込もうとする。 だからこそ、こうするしかなかった。 帰れと命令するだけじゃ納得せず、何故何故どうしてと食い下がる面倒くさい助手を追い返すには。 後悔はない。反省もしない。 一方で、理一を捌け口にした自覚もある。 日水村に足を踏み入れてから、もとい清美が事務所に訪れた日から、練の中にはドロドロした負の感情が渦巻いていた。 それは村を探索するほど募り、すぐ隣を歩く理一のお気楽な笑顔を見るたび膨れ上がっていった。 決定打は日水山で繰り広げた口論。 瞼の裏に引き気味の笑顔が浮かぶ。 『ミミズなら怖くないじゃん。アスファルトでよく干からびてるし、あんなザコ茶倉なら余裕だろ』 『生理的に無理って感じ。マジ吐きそうになった。悪趣味すぎるよな、人間を牢にぶちこんで……化け物の種付けとか正気かよ』 理一に悪気はない。わかってる。練を鼓舞しようとしたのだと、頭ではきちんと理解している。 結果的に地雷を踏み抜いたとしても、あれは善意から出た発言だった。 時として善意は無神経に裏返る。 理一は安らかな寝息を立てていた。 枕元に片膝付き、前もって準備していた新しい数珠をとりだす。それを理一の右手首に通し、なでる。 はだけた合わせ目から覗く鎖骨や首筋に、赤く淫靡な痣が咲いていた。 「朝までぐっすりやろ」 戯れに前髪をかき上げ額を暴く。無防備な寝顔に一抹の後ろめたさを覚え、唇を噛む。 親指と人差し指で眉間を摘まんだのち手を開き、指をそろえて上から下へおろし、頭をさげる。 久しぶりに手話を使った。まだ覚えてるのが不思議だ。練の母は耳が聴こえないため、家庭における日常会話に手話を用いていた。幼稚園に上がる頃には既に、たどたどしい手話で意思疎通していた記憶がぼんやり残っている。 素早く腰を上げ座敷を突っ切り、細心の注意を払い襖を開く。 幸い人けはない。藤代は家事を終え帰宅済み、清美は屋敷の反対側の舅の部屋にいる。佐沼邸の広さを鑑みて万が一にも気付かれる心配はなかろうと踏んだが、内心ひやひやした。 「さて、もうひと働せな」 肩を揉んで腕を回す。本音を言えば早く寝たい、今日は気力体力をごっそり削られた。 理一を抱き潰すまで振り動かした腰はだるく、倦怠感が取り憑いている。 が、先送りにはできない。事は一刻を争うのだ。 自分の部屋に帰って荷物をあさり、懐中電灯を装備。電池は新品を補充した。仕上げに登山用のブーツと虫よけスプレーを引っ張り出す。 午後十一時十分、佐沼邸を発った。 行き先は日水山の社跡、数時間前に探索を断念した場所。理一が邪魔さえしなければ昼間のうちに調べ終えていたのに、全くもって腹立たしい。アイツいらんことしかせえへん。 ハイブランドの靴からゴツいブーツに履き替え、再び背広に身を包み、虫よけスプレーをあちこち吹きかけながら歩く。 真っ暗闇が閉ざす山道を一人で登る。途中で息が切れた。しんどい。木に縋って一歩踏み出す。懐中電灯が手汗に滑り、傾ぐ。引き返す?却下、明日には持ち越せない。 『夫はおきゅうさまに殺されたんです』 薄幸の未亡人の哀切な声音が殷々と響く。清美が事務所を訪れた日を境に、練の平常心はすり減っていった。 「おきゅうさま。きゅうせんさま。こっちが本家?どこで分かれたんや。管狐と同じで、娘の嫁ぎ先に憑いてって繫殖するんか。アレは壺で飼うけどこっちは地下牢じゃ。ババアは何聞いたかてだんまりや。ようやっと掴んだ手がかり、離してたまるかい」 行く手を阻む小枝をへし折り、地面の小石を蹴り飛ばす。 練の中には化け物がいる。 きゅうせん様と呼ばれる得体の知れない存在が。 『それもしかり、村には九の泉があった。ただの泉にあらず、恐ろしい魔物が棲む泉じゃ。魔物は地下水脈を経て、ある時は一から二へ、ある時は一から九へ、好きな泉に移り住んだ』 きゅうせんさまが九泉に由来するなら、そのルーツは日水村にあるに違いない。 「はッ、ははははっ」 散り敷かれた小枝を踏みしだき、狂った笑いをもらす。 TSS代表として心霊トラブルを解決する傍らずっとずっと情報を追い求めていた、自分の体内に宿った化け物を殺す術を探し求めていた。 追い出すでも祓うでも滅ぼすでもこの際言い方はなんでもいい。要は自分から引き剥がしたい、体を取り戻したい。苗床で一生終えるなんてごめんじゃボケ。 きゅうせん様は十六年間練に寄生している。 共生と表現するには、そのありさまは一方的な搾取に特化していた。 きゅうせんさまの情報がもたらされた日は念願叶った武者震いを禁じ得なかった、依頼人の目がなければ跳び上がりざま快哉を叫んだかもしれない。 これで漸く自分を長年苦しめてきた化け物とおさらばできる、地獄から抜け出せる。 誰にもわからん。 わこうてたまるか。 真っ暗な地下牢、組紐の結界、週末の夜毎繰り返される凌辱。 望まず孕まされ産まされる恥辱と激痛。 自分の体が苗床に造り替えられていく恐怖と絶望。 慣らしは十歳の時から五年間、練が十五になるまで行われた。 今もまだ目隠しが怖い。 アイマスクが使えない。 「お前になにがわかんねん理一。あほたれ」 理一が見てきた十年より、穴蔵で過ごした五年の方がずっと重い。 ずっとずっと、気が狂い果てるほど長い。 お前かて本当のこと知ったらいなくなるくせに。 抱かれたこと後悔するくせに。 粘度と湿度を増した闇が纏わり付き、暴力的な虫の合唱が膨らむ。 記憶を頼りに歩き抜き、遂に夕方登った地点に到達した。懐中電灯でキープアウトテープを照らす。 念のため周囲を窺い、誰もいないのを確認後跨ぎ越す。 危険は承知の上、覚悟の上。練が見立てた所、土砂崩れが再発する確率は低い。雨降って地固まるはただの慣用句にとどまらず、先人の知恵が凝縮された経験則だ。 懐中電灯が闇を丸く切り抜く。ロープの五十メートル先には崖があった。 「社の跡地か」 崖の先端にだけ草木が生えてない。前回の台風でなだれ落ちたらしい。崖下には大量の土砂が堆積していた。 嫌な気配がした。誰かが見ている。懐中電灯を持ち直して振り返る。誰もいない。まだ見ている。 ざわざわと葉擦れの輪唱が押し寄せ、生臭い風が吹き付ける。全身に突き刺さる視線の主は闇に紛れて視認できず、圧迫感だけが募り行く。 「誰にガンとばしとるんじゃ」 視線の圧を鼻で笑い、複雑な印を切り結ぶ。土地の記憶が呼び覚まされ、崖の先端に在りし日の社の幻影が生じる。 幻の社の輪郭が歪み、渦を巻くように溶け崩れ、中から慟哭が響き渡る。 『おっとおおおおお、おっかああああああ』 『後生です、何卒命だけは……』 『化け物の子なぞ孕みとうない、産みとうない!お願いじゃ、ここから出しとくれ!』 女子供の哀願に何かが這いずる音がまじり、絶叫が闇を引き裂く。練は即座に理解した。 「土地神を祀る社か。えらいはったりやんけ」 村の人間が接近を禁じられたのは、ここがおぞましい「儀式」の場だから。 まなじりを決し、陽炎さながら揺らめく社の中心に焦点を絞る。 引き戸を透かして浮かび上がるのは、木製の格子が嵌まった簡素な牢。 格子に縋り付いて泣き叫ぶ娘たちに異形の化け物がのしかかり、触手で目一杯四肢を開く。 『ひみずのむらはひをみずに ひみずのやまはひをみずに きゅうのいずみにわきいずる きゅうせんさまがわきいずる』 生贄が口ずさむ。 『きゅうのいずみのそこふかく じむしのじごくがそこにある きゅうのいずみのそこふかく ちみもうりょうがわきいずる』 木格子に爪を立て。喘ぎ声に嗚咽を交え。 「牢屋行きはお天道様と決別。わらべ歌は恨み節」 本来の歌詞はこうだ。軽く息を吹い、積年の恨みが練り込まれた歌を紡ぐ。 「日見ずの村は非を見ずに 日見ずの山は非を見ずに 九の泉に湧き出ずる 九泉様が湧き出ずる」 『おらは悪くない、化け物の嫁サになるのが嫌だから逃げただけだ!』 「九の泉の底深く 地蟲の地獄が其処にある 九の泉の底深く 魑魅魍魎が湧き出ずる」 『なんでおいらが牢送りになるんだ、おっとうもおっかあもおらん孤児だからか!悪いことなんぞ何もしとらん、お願いここを開けて、ここから出して……』 ヒミズは日見ズと非見ズ、二重の意味を孕む。 非ヲ見ズ……即ち、罪なき贄の無念の叫び。あるいは呪詛。 これは幽霊じゃない、土地に焼き付いた思念の残滓だ。したがって、生贄の慟哭はどこまでも一方通行にすぎない。 『たすけてえええええええ』 『いやあああああああああ』 練はただ社の中にもうけられた牢内にて、生贄が凌辱される光景を見届けるしかない。 「ちっ」 舌打ちと同時に解呪の印を切る。幻の社がかき消え、静寂が舞い戻る。 気分が悪い。嫌なものを見た。土地の過去と自分の過去が錯綜し、十数年前の地下牢に引き戻される。 真っ暗や。 なんも見えへん。 怖い。 いやや。 おばあちゃん。 『たすけて』 玲瓏と澄んだ声に向き直り、目を剥く。 正面に粗末な着物を羽織り、目隠しを巻いた女の子が立っていた。 「お前」 『おとうさんおかあさんにあいたい』 幽霊?否……見覚えがある。 年の頃十歳程度、眉の上と肩で切り揃えた黒髪が日本人形めいた雰囲気を強調する。 薄汚れた頬に二筋彫り抜かれた涙の跡が、闇の中で清らかに光っていた。 『お腹がすいた。死にたくない。ねえだれか、聞こえてる?真っ暗でやだよ、怖いよお、たすけてよお……』 手の甲で涙を拭い、泣きじゃくる少女の体は透けていた。 考えてみれば妙だ。小学生がいないのに、何故比較的新しい子供サイズの運動靴が落ちていたのか。 もしまだ土地神に生贄を捧げる因習が生きていて、村のどこかに子供が閉じ込められていたら―……。

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