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第25話

茶倉が俺の支えを得て弓をとる。 狙いを付ける先で長く太い胴がのたうち捩れ、無数の人面が引き攣れ、凄まじい地震が波及していく。 「あかん、定まらん」 茶倉がじれて叫び、俺も歯噛みする。 おきゅうさまが峩々と屹立、垂直になった胴を滝の如く泥流が下っていく。 空には稲妻が走り、激しい雷雨が地面を泥沼に変え、俺たちや清美さんたちの下半身をずぶずぶ飲み込んでいく。 「きゃあああああああっ!」 最年少のえりなちゃんが転んだ拍子にどぷんと首まで沈む。すかさず清美さんが駆け戻り、えりなちゃんを引き上げた。 「この子をお願いします」 「清美さん、どこへ」 「足止めに」 えりなちゃんのお尻を押して駐在の背中に負わせたのち、喪服の袖を捲り上げ、鍬を鷲掴む。 「何が佐沼の嫁よ、笑わせる。夫が人様の子を誘拐してきたのにも気付かないで、ばれたらばれたで保身に回って情けない」 「戻れ!」 「外から来た人たちが戦ってるのに見殺しにできますか。アレがうちの狂ったしきたりの産物なら、嫁としてけじめを付けなきゃいけません」 前を向いた清美さんの顔には、透徹した覚悟が宿っていた。 俺が見た中で一番強く逞しく美しい、未亡人の表情。 「その子を家に帰して」 「無茶すんな!」 細腕で振り抜いた鍬がたちどころに弾き飛ばされ、おぞましい触手が彼女を絡めとる。 白い四肢に絡んだ触手が淫猥に蠢いて喪服を剥ぎ、豊満な乳房や脂の乗った太腿を這い回る。 直後、何かがおきゅうさまに体当たりした。 「藤代さんっ」 頭のてっぺんから爪先まで泥にまみれた藤代さんが、清美さんを縛る触手を引っ掻き、噛み付き、絶叫する。 「奥様をはなしなさい、悪いのは私よ、殺すなら私にしなさい!」 「どうして……」 「ごめんなさい清美さん、私が間違ってました。もっと早くに打ち明けて、えりなちゃんをおうちに帰すべきでした」 頽れて、泥を掴む。 「あの子の……尚人の汚名を上塗りしたくなかったの」 尚人さんを呼び捨てた事に違和感を持ち、文彦さんを見る。文彦さんがよろよろ歩き出し、藤代さんに近付いていく。 「せめて四十九日がすんでから、喪が明け次第奥様や警察に話そうって、それで」 「共犯だったんですか?」 「いいえ。でも同じね、監禁したんだから。刑法上は従犯になるのかしら……本当に酷い事をしたわ。怖い思いさせてごめんなさいねえりなちゃん、おばあちゃんを許してね。身勝手なのは百も承知よ。こんな事言っちゃ駄目ってわかってるけど、少しの間でも孫ができたみたいで嬉しかった」 沖田さんの質問に儚く笑い、エプロンから抜いた包丁を両手で持ち、告げる。 「あの子の忘れ形見は私が守る」 刃が肉を抉り人面を削ぐ。 俺と茶倉は動けない。 出刃包丁の一撃が予想外に利いたのか、喪服をはだけた清美さんが落下し、沖田さんが力強く受け止める。 刺して抜き刺して抜き、真っ赤な血しぶきを全身に浴びた藤代さんが激情に駆られて叫ぶ。 「よくも尚人を!」 何度目かに振り上げられた手に手が重なる。文彦さんだ。 数瞬の沈黙を雨音が埋める。 藤代さんと文彦さんが互いの目を見交わし、どちらかともなく頷くやいなや、二人分の体重を乗せ、渾身の刺突を繰り出す。 包丁が根元まで肉に埋まり、雨煙に包まれた藤代さんと文彦さんが微笑み、消えた。 「お義父さんっ!!」 雷鳴と稲光。 二人の体がほぼ水平に母屋に突っ込み、瓦礫の下敷きになる。 「藤代さんっ!」 「なお、と」 毎日飯を作って運んでくれたお手伝いさんが、襖や障子の残骸に塗れて呻く。文彦さんは即死だ。 無我夢中で泥水をかき分け、なんとか接近する。 小刻みに痙攣する手を握り締め、文彦さんの手に導いたのち、俺の声を尚人さんと間違え、俺の顔を尚人さんに重ねた藤代さんを覗き込む。 「すぐ救急車呼ぶ」 「生きてたってどうせ刑務所でしょ……」 「小さい女の子一か月も閉じ込めといて死に逃げとかふざけんな、本当に申し訳ねえって思ってんならちゃんと償えよ、一生トラウマしょってくえりなちゃんと心配かけまくった両親に謝れよ!」 「ごめんなさい……でも……」 緩慢に瞬きし、掠れた息の下から言葉を紡ぐ。遅まきながら駆け付けた清美さんと沖田さんが藤代さんを挟み、首の後ろに手を添え、頭を起こす。 「私だって、佐沼の嫁よ」 最後に一言「ごめんね」と誰宛かわからない謝罪を述べ、目は光を失った。 「お義母さん……」 清美さんが涙ぐんで遺体をかき抱き、えりなちゃんがぐすぐす泣きだす。 満身創痍の藤代さんを看取り、胸の内で炎が燃え上がる。 「藤代さんは尚人の後始末をやらされただけだ。誘拐を手伝ったわけじゃねえ」 「詭弁や」 「えりなちゃんに猿轡噛ましたのは、小せえ子に連日薬を盛りたくねえからだよ。そっちの方が楽なのに……飯だってえりなちゃん用に分けて作って、きちんと手ェかけて、そりゃ悪ィことしたけど、それってこんな死に方しなきゃいけねーほどの事か」 一か月監禁されてたえりなちゃんが健康なのは、藤代さんがまめに世話したから。 見た感じあせもはないし、髪にフケもたまってないのは、きちんと体を拭いてやったからに違いない。藤代さんは佐沼の嫁の務めをきっちり果たした。次は俺の番……いいや、俺たちの番だ。 「見ろ理一」 茶倉がそっけなく顎をしゃくる。それで気付いた、おきゅうさまの様子が変だ。文彦さんと藤代さんの最期を見届けて満足したのか、人面が消え始めている。 『やれ嬉しや、佐沼の当主が死んだ』 『嫁御も死んだ』 『これで佐沼の一族はおしまいじゃ、我らの悲願の達成じゃ』 尚人は一人っ子で子どもがいない。文彦の死は一族の終焉を意味する。おきゅうさまの胴に隆起した人面が続けざまに消え去り、亡魂が空へ昇っていく。 場違いに幻想的な光景に、呆けたように開けて見とれる。 『まだじゃ、まだ終わらん。日水村を滅ぼすまで居座り続けるぞ』 『佐沼の罪は村の罪じゃ、罰は遍く等しく全員に行き渡らねば不公平というもの』 禍々しい瘴気が吹き付け、第二幕が上がる。泥沼に伏せていた触手が次々身をもたげ、俺たちを一か所に追い詰める。 日水山が鳴動し、木々が薙ぎ倒され、鹿や猪の群れが雷雨を裂いて狂奔する中、茶倉が舌打ちした。 「呪符もふやけて使い物にならん」 「残弾尽きたか」 「まだとっておきが残っとる」 俺たちは決して万能じゃない。できることには限界がある。だから藤代さんと文彦さんを救えなかった。 「この時の為に仕掛けといたんや」 だけどまだ、救える人たちがいる。 「お兄ちゃん……」 「大丈夫。うちの社長、超強エから」 怯えきったえりなちゃんを清美さんが抱き締め、沖田が鍬を握る。藤代さんと文彦さんは瓦礫の褥に寄り添い、雨に打たれて眠ってる。 来た。 触手が鋭く撓って地面を穿ち、茶倉と反対方向にとびのく。 「ガキは任せたで駐在!」 「了解、ぶちのめしてこい!」 沖田さんが二人を庇って怒号し、襖の下に転げ込む。茶倉が時計回りに走りながらジェスチャーを送ってきた。 俺は深呼吸し、両手を広げて言った。 「来い、文彦!」 たった今死んだ文彦さんの残滓が体に入り込み、俺の口を借りて檄を飛ばす。 『飼い殺しの地蟲風情が!佐沼の当主に楯突く気かっ、身の程を知れっ!』 おきゅうさまに憑依した縣たちが吠え猛り、あらん限りの憎しみを剥き出し、泥を撒いて向かってきた。 霊姦体質の強みは近くにいる霊を取り込める事、ここが大詰め正念場。 「茶倉ああああああああああああああ!」 両手両足を踏ん張っておきゅうさまを受け止める。足が膝までぬかるみに沈み、続いて腰まで没す。胸から上、首から上、どんどん水位が上がっていく。 そこに意外な加勢が合流した。 茶倉の使役するミミズがおきゅうさまを組み伏せ、錐揉み状に絡まり合ってどうと倒れる。 左手に巻いた組紐がブチブチ千切れ蒸発し、おきゅうさまがひと回りふた回り煙を吹いて縮んでいく。 まだ縮む。まだまだ縮む。ミミズの化け物が取っ組み合い、上になり下になりして暴れ狂い、片方が片方を吸収していく。 「ええ子やな」 してやったりと片頬笑み、凛と背筋を律して樒の弓を引き、霊力を束ねた光矢で貫く。 「首打ち落し、喜び勇み、都へとてこそ帰りけれ!」 視界が白熱し、断末魔を落雷がかき消す。 雷雨が小雨に代わり、崩壊した母屋の残骸が筏のように流されてきた。沖田さんたちは無事だ。 「終わった、のか?」 途方もない脱力感に襲われ、膝下から崩れ落ちる。茶倉が腕を下ろして息を吐く。襖の下から這い出た沖田さんがえりなちゃんと清美さんを助け、山を睨む。 「何だ、この音」 「え?」 低い轟音に続いて地面が揺れ動き、茶倉が血相変えて走り出す。 「逃げろ!」 「待って、お義父さんと藤代さんの遺体が」 「言うてる場合か!」 日水山が崩れ、斜面を大量の土砂が雪崩れてくるのが見えた。 「走ってえりなちゃん!」 えりなちゃんの手を取って走る、走る、走る。正門を出た所で一人足りない事に気付いて振り返りゃ、沖田さんが積み重なった瓦礫をどかし、ふたりの遺体をまとめて背負っていた。 「沖田さん、やだそんな、なんで」 「行っちゃだめだ!」 咄嗟に戻りかけた清美さんの腕を掴んで制す。凄まじい震動に次ぐ轟音。たまらず尻餅付いた俺の眼前で土砂が塀を突き破り、佐沼邸を埋め尽くす。 倒木や岩を砕いた泥流は屋敷の隅々まで浸食し、立派な柱や梁を破砕して、年季の入った天井と床を木っ端に変える。 清美さんが力なく尻を落とす。涙も枯れ果てたのか、大きく見張った目は一切の感情を失っていた。 茶倉が独りごちた。 「惜しい男を亡くした」 甲高く乾いた音が鳴る。般若の形相の清美さんが、振り返りざま痛烈な平手打ちをくれたのだ。 「他人事のようにッ……どうして行かせてくれなかったの、私まだあの人に言ってない、さんざんお世話になったお礼伝えてない!」 「沖田が好きなん?」 「そうよ!!」 「尚人よりも」 「悪い!!?」 清美さんがヒステリックに喚き、固めた拳で自分の膝を叩き、感情を爆発させる。喪服はあちこち泥だらけ、髪は乱れ放題で酷い有様。 「尚人さんもお義母さんも藤代さんもなんで勝手にいっちゃうの、私をひとりぼっちにするの!もういや、嫌い、大っ嫌い!沖田さんの馬鹿っ、戻ってきなさいよ!」 「ただいま」 一同顔を上げ面食らった。文彦さんと藤代さんの遺体を担いだ沖田さんが、憮然とした顔で突っ立ってる。 「間一髪やったな。悪運強い」 顔を腫らした茶倉が苦笑気味に出迎えるのを遮り、歓喜に狂った清美さんが飛び出す。走る途中で喪服が脱げ、下着になり、うぶな駐在が赤面する。 「清美さん服!」 「どうして!?どうして!!」 下ろした遺体の瞼を閉ざしたのち、清美さんの柳腰をしっかり抱き止め、彼は言った。 「尚人さんの時に泣かせたから」 答えはそれで十分。固く抱擁する二人にいたたまれなくなり、えりなちゃんを連れて少し離れると、ゴンが坂道を駆けてきた。後に続くのは桑原のじっちゃんと青年団の面々。 「日水山に雷が落ちたぞ!」 「土砂崩れの再発だ」 「清美さんと義彦さんは無事か、藤代さんが見当たらんが」 「あれ見ろ、屋敷が」 「こりゃ酷い……」 跪いてゴンをもふり、腰を浮かす。青年団のリーダーが顔面蒼白で疑問を呈す。 「おきゅうさまの祟りか」 「ただの……って言い方もアレだけど、フツーの土砂崩れっすよ」 東の空に満ちる曙光が先祖の罪に報いた文彦さん藤代さんの死に顔をすすぎ、土砂に埋もれた佐沼邸を照らす。 長い長い雨が上がり、日水村に日がさした。

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