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ずっと昔の、私の話(私)
「実験体とはいえ、人一人の生命維持にはそれなりの経費がかかりますから。当初は一人ずつにそう時間をかける事なく、絶命するまで切り刻んでは次にという流れ作業だったそうです」
私の話を、ギリルはじっと聞いていました。
もうずっと長い間誰にも話さずにいたので、ほとんど忘れていたような気がしていたのですが、話すうち私は当時のことを鮮明に思い出していました。
「ですが、私の順番が来る頃には実験体の残り人数は少なくなっていて、新しい実験体の確保が確実になるまでは、残った実験体を慎重に扱おうという方針に変わったようです。ですので、私はそこで半年ほどを過ごしたようです。ああ、魔族化した後はしばらく記憶が抜けている時期があって、よく覚えていないのですよ」
私が苦笑すれば、ギリルが私の頭を優しく撫でました。
「季節の変わり目に、施設の最高責任者や指揮官が随分変わったと言う話は、噂程度に耳にはしていたのですが。まさかそれが……、彼が、あんな風に私に関わってくるとは思ってもいませんでした」
私を撫でていたギリルの手が、一瞬ピタリと動きを止めました。
ですが、私が不思議に思うより先に、ギリルの手は私をまた優しく撫で始めます。
「一人部屋に移された当時の私は、先に大部屋を出た家族達も皆別の部屋で生きていて、この実験さえ終われば全員解放されるのだと教えられ、それを根拠もなく信じていました。それが自死を防ぐための方便だったことにも気付かず、それだけを拠り所にして日々を耐えていたのですから、さぞ扱いやすい験体だったでしょうね」
自身の愚かさを嗤えば、ギリルは私を抱く手に力を込めて、私の髪に口付けます。
ギリルの熱と香りに包まれていれば、こんな話をしていても、私はこんなに落ち着いていられるのかと、なんだか不思議なほどでした。
「あの頃の私にとって、毎日温かい食事を運んでくれて、怪我の手当をしたり、話し相手になってくれる彼は、地獄のような生活に差し込んだ一筋の光でした。今思えば、家族が生きていると私に教えたのも彼だったのかも知れませんね」
「彼……?」と、ギリルが聞き返しました。
「ええ、彼はハイネと名乗っていました。ですがそれは偽名で、私が彼の本当の名前を知ったのは最後の日でしたね」
「……そっか」
ギリルはそれきり、また黙って私の話を聞いていました。
「彼はいつも優しくて、私が自力で食事を摂れない時には食べさせてくれたりして。そんな相手に、……懐かない被験体はいなかったでしょうね」
身体の隅まで、心の奥深くまで、より痛みを感じる場所を、より苦痛を感じる場所をと試される日々。
どうして自分は生きているのか、なぜ生まれてきてしまったのか。そんなことばかりがいつでも頭を埋め尽くしていて。
本当に生きていると言えるのかも疑わしい毎日なのに、死に瀕するたびに、死にたくないと願ってしまうたびに、まだ自分が生きているんだと自覚させられました。
そんな時、彼に好きだと言われて。
私は何も考えずに応えてしまいました。
こんな汚れた私を、構わず愛してくれる事が嬉しすぎて。
私も好きだと、愛していると、愚かな私は毎夜のように彼に囁きました。
彼の言葉がどれほど薄っぺらなものだったのかも、私はまるで気付くこともなく。
彼は私の内側をゆっくり解いてゆきました。
当時の私はまだ知らなかったのです。
痛みや苦しみよりも、耐え難い感覚があるということを。
これまで他の職員達が私を犯す際、わざと痛みのみを与えるようにしていたことも、彼に告げられたあの日まで、私は知りませんでした。
「彼によれば、狂った人より狂わなかった人の方が少なかったらしいのに。どうして私はあの頃のうちに正気を手放しておかなかったんでしょうね……」
不意に、あの部屋の空気を肌に感じた気がしました。
まだ建って間もない建材の臭いに、毎日の消毒液と、あらゆる体液の臭い。
彼の声が耳元で囁きます。
優しく、柔らかな彼の声が。
『信じられないって顔だね、計画通りで嬉しいよ。ここまでの君の実験プログラムは全部私が組んだんだよ。まあこんなに惚れ込まれるとは思ってなかったけどね』
彼の声は、耳から入り込んで、私の頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜてゆきます。
『前任者は無能だったのさ、身体ばかりを刻んで、だから皆死んだ。俺はそんなバカな真似はしない。切り刻むべきは心だよ。身体を傷付けるのは、心を傷付けるためじゃなきゃね』
「……っ」
羞恥と絶望が一気に蘇って、ぞわりと全身の毛が逆立ちました。
『今日はいいものを色々持ってきたからね、君が今まで感じたことのない感覚を、たくさん教えてあげるよ』
残酷そうに薄く微笑んだ彼を、私はまだ美しいと感じてしまって、手足を縛る拘束具にはクッションが挟まれていて、それは私が相当暴れるだろうことを想定されていて、私にだけ向けられた明かりは、部屋中の人に私の一糸纏わぬ姿を晒していて、ここに何人いるのか私にはわからないまま、暗闇からたくさんの手が私に伸びて……。
「師範、大丈夫か!?」
不意に耳元でギリルの声がして、ハッとしました。
私は宿の部屋にいて、ギリルの腕に包まれていました。
「――……ぁ……、はい……。大丈…………」
心臓が壊れそうなほどに早鐘を叩いて、私はすっかり息が上がっていました。
全身に吹き出したじっとりと嫌な汗が、こめかみや首筋を伝い流れます。
ギリルが私を腕の中でそっと回すと、私の身体はギリルと向き合いました。
「ありがとう、俺に話してくれて」
ギリルはそう言って、私を大切そうに抱き締めました。
私は、ギリルの求めに応えられたのでしょうか。
最後の方は記憶と言葉が混ざり合ってしまって、何処まで話せたのかよくわからなかったのですが……。
「ギリル……質問はありませんか?」
私は、授業の終わりに必ず言っていた言葉を口にしました。
「ん、じゃあ一個だけ」
ギリルはそう言うと、私の肩を両手で握って少しだけ離すと、私と目を合わせました。
「師範は、その彼ってのが好きだったのか?」
「……そうですね。実に愚かな……私の……初恋でした」
目を伏せただけのつもりが、ホロリと一粒、溢れてしまいました。
ギリルはいつものように私の雫を人差し指の背で拭いました。
ギリルの指に移った雫は、ギリルが指を傾けると指先へと移動します。
ギリルは自分の指先に宿る私の涙をじっと見つめて言いました。
「師範は、そいつとしたのが初めて?」
「……いえ、それまでにも施設にいた間はずっと……、職員は大勢来られますし、入れ替わりもありますので、何人とか、最初が誰かまではわかりません……」
申し訳なさに俯きながら答えると、私の視界の端でギリルが私の涙をペロリと舐めたのが見えました。
「で、そいつともしたんだ?」
いつの間にか、質問は尋問に近付いていて、私は身が縮みました。
「……は、はい……」
ギリルは私を……軽蔑してしまったでしょうか。
今ギリルがどんな顔をしているのか気になって仕方ないのに、私は顔を上げるのが怖くてたまりませんでした。
沈んでしまいそうな胸の内に必死でギリルの言葉を浮かべます。
『何があっても、俺は師範が好きだから』
ギリルは、私に、そう言ってくれました。
……そう、ですよね?
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