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浴場にて

「下がれ!」と叫ばれたその言葉に、俺は、ほんの少しだけ躊躇ってしまった。 このまま……このまま死んでしまえたら。 もう辛い記憶に胸を灼かれることもないと……。 そんな俺の迷いで、あの人は俺の代わりに肩を裂かれた。 飛び散った温かいものが、俺の頬にも当たる。 けれどそれは、赤くはなかった。 大浴場の湯船に浸かっていると、どうしても先程の戦闘で頭がいっぱいになってしまう。 そんな俺の目の前に、ぽたり、と天井から降ってきた水滴が波紋を作る。 音もなく、静かに揺れて消えゆく小さな波。 ……自分も、こんな風に、誰にも気付かれずにそっと消えてしまえたら良いのに……。 カララと軽い音を立てて浴場の戸が開く。 誰が入って来たのかを確認する気にもなれず、ただ俯いて水面を眺めていた俺に、その人はため息混じりに声をかけた。 「マルクス……。ったくお前は……、風呂ん中でまで辛気臭ぇ顔してんのかよ」 うんざりしたような声に、俺はハッと顔を上げた。 「ゼスタさん! お怪我は……っ」 先程の戦闘で、俺を庇って肩に怪我をしたはずの人は、傷一つない肩をすくめてニッと笑った。 「あんくらい、怪我のうちにも入らねぇよ」 俺よりもずっと低い、ざらついた声がぶっきらぼうに答える。 背も高く、体格の良いこの男は、俺の所属するチームのリーダーだった。 いつも頭に布を巻きつけて束ねられている瑠璃色の髪は、今は解かれて緩やかに波打つまま、胸の下あたりまでおろされている。 俺を見下ろす三白眼に近い小さめの瞳は、深い翠色をしている。敵を前にした際の眼光は刺さりそうなほどに鋭い人だが、今はそれも、面倒そうに緩められていた。 彼の元気そうな姿に、俺はそっと安堵の息を吐く。 彼の再生能力が高いのは分かっていても、やはり、裂かれた肩は痛かっただろう。 「……あの、今日は、すみませんでした……。……ご無事で……その、良かったです……」 俺の言葉に、手桶で湯をかけていた男が眉間の皺を深めて、ジロリと俺を睨む。 「お前なぁ……。何が悪かったのか、わかってんのか?」 「は、はい……。ごめんなさい……」 身を縮めて俯くと、男のため息が一つ聞こえた。 シンと静まり返ってしまった浴場に、ちゃぷんと水音が響く。 どうやら男が湯に浸かったようだ。 わざわざ俺から一番離れた反対側に入ったのは、俺が萎縮しないようにだろうか。 けれど、しばらくしても俯いたままの俺の肩を、励ますように叩いたのは、俺と同じ広い湯船に浸かった男が、湯の中で伸ばした触手のような腕の一本だった。 ぷるりと揺れるゼリーのような質感の、手首ほどの太さのそれは透明で、湯の中ではほとんど見えない。 だとしても、結局肩を叩いてくれるのなら、その距離を取る必要はあったのだろうか。とも思う。 どうにも不器用な男のやり方に顔を上げれば、男はふいと目を逸らした。 そういえば、この人は自分の目つきの悪さを気にしていて「目が合うだけでガキが泣く」と愚痴をこぼしていたのを聞いたことがあった。 横を向いてしまった男の耳朶には、ポッカリと大きなピアス穴が空いてる。 普段はそこへ大ぶりの真っ赤な宝石が埋まり、反対側の耳にもジャラジャラとした金色の金属製の飾りが下がっている事を、俺は知っていた。 わざわざ目を逸らさずとも、俺は泣いたりしないのにな……と心の隅で思いながら、反省を伝える。 「今後、このような事の無いよう、気を付けます」 「……今後……、な」 俺の言葉に、男はぽつりと呟きを返してから、俺の目を見た。 「マル。お前、この後の事、なんか考えてんのか?」 言われて、ぎくりと背が強張る。 もう一度、沈黙に支配されてしまった浴場に、ちゃぷ、とすぐ横で水音が鳴る。 見れば、湯の中からにょろりと生えた触手が俺の頭上へと伸びようとしていた。 湯の中で温まったのか、さっきよりも幾分ポカポカする触手が、ぷよぷよと俺の頭を撫でる。 この男は、俺と同じで人とは違う体をしていた。 男の体は、腰あたりから湯の中に溶け込むように消えている。その下は全てゼリー状で透明な何本かに枝分かれした触手になっていた。 その全てが彼にとって腕だということを頭で理解していても、何というか……、どうにも足で撫でられているような気になってしまう。 人に似せて化けている、その上半身から生えた手で撫でてくれる方がまだ印象としてはマシな気がしたが、それでも温かく重たい感触が頭に残って、ほんの少しだけ心が緩んだ。 黙ったままの俺に、男は言う。 「せっかく念願の仇を討ったってのに、もーちっとハッピーそうにしてろよ」 仇という単語に、胸が軋む。 それに気付いたのか、頭を撫でていた触手が、いっそう優しく俺を撫でた。 「……仇を討てたのは、嬉しかったんです……」 ぽつり、と零してしまえば、そこから先は止まらなかった。 「でも……、俺はいつの間にか、仇を討つためだけに生きてたみたいで……。これから、どうしたらいいのかが、全く分からなくなってしまったんです……」 あの日から、胸の真ん中に開いてしまった大穴を、ここまでずっと、仇を討つという目標で埋めていた。 生活の全てをそれにかけて、そのために技を磨き、そのために息をして、そのために食事をして、そのために眠っていたようなものだったのだと。 仇を討つこと以外、自分には何も無かったという事実に、ここへきて、ようやく気付いてしまった。 「俺、は……――」 言葉の終わりが、水面に落ちる。 見下ろした自分の体は、人の腹部にあたる部分がごっそり欠けていて、かわりに大きな口がついている。消化器官なんてものはない。 俺は、魂をそのまま取り込んで、自分の命にかえる生き物だった。 人と同じように物を食べたりすることはない。 水分は必要だったが、それも肌から吸収するため、水を飲む必要も無かった。 「俺は……、生きてるだけで他の命を費やしてる……から……」 「だからなんだ」 男の語調は厳しかった。 「そんなん人間だって一緒だろ。お前まさか、目的を果たしたから、もう死んでもいいと思ってんのか!?」 言い当てられて息を呑んだ俺の様子に、男は顔色を変えて立ち上がる。 「おい……冗談だろ……?」 数歩近づいた男の、その声が、ほんの少し震えているようで、俺は彼の顔を見ることができなかった。 「今まで俺が……俺達が、っ……」 何かを言いかけて、それを堪えた男が、何かを諦める様にかぶりを振る。 数瞬の沈黙の後、男は元から低い声をさらに低くして、静かに告げた。 「……死ぬなら一人で死ね。お前の身勝手に、他の奴を巻き込むな」 男の口から出たその言葉に、自身の傲慢を思い知る。 ざぶ、ざぶ、と波を分けて俺に近付く気配。 「俺は、俺のチームの奴らは誰一人殺させねぇと思ってる。だが、本人が死にたいと思ってんなら、話は別だ」 目の前まで来た男から漂う隠し切れない怒気に、息が詰まる。 「チャコも、ガッサも、オライドも、お前がぼんやりしてちゃ助けに来るだろう。あいつらに『俺はもう死にたいからほっといてくれ』って、今すぐ言って来い!!」 至近距離から怒鳴られて、俺は思わず「はい!」と叫びながら湯船から飛び出した。 ザバッと大きな水音と共に、周囲へ湯気が舞う。 「ん? なんだお前……。付いてるだけじゃなくて、穴まで開いてんのかよ」 ぽつりと呟かれた言葉に、俺は慌てて男を振り返った。 「な……っっ。何、見て……っ!?」 慌てて下半身を手で隠そうとするも、足の間へ男の触手がにゅるりと入り込む。 その先端には目玉がついていた。 「先輩!?」 「お。先輩呼び、久しぶりだな」 男は触手の先に移動させた分の片目を閉じたまま、ペロリと自身の唇を舐める。 「なあ、お前って妊娠したりすんのか?」 不躾な質問に、俺は戸惑いつつも答える。 「……え、ええと……。おそらく、しないと思います。俺は男性体として育ってますから……」 「ん? じゃあ、お前らの種族の女性体ってのは、付いてんのか?」 急に何の話だと思いながらも、今の今まで叱責されていたこともあり、俺は正直に答えた。 「……残る人もいるようですが、大体は小さくなって吸収されます」 すると、足の間にあった触手がスルスルとのぼってくる。 「確かにお前の穴も、閉じかけてんのか。狭そうだよな……」 「み、見ないでくださいっ!!」 俺は慌てて足を閉じる。 「男湯で後輩の体見たって、別におかしかないだろ」 不服そうなその声に、必死で反論する。 「見方がおかしいでしょう!? 普通は、わざわざこんな……っ、下から覗き込んだりしませんから!!」 彼の触手が届かないよう大きく距離を取って、俺は叫んだ。 顔から火が出そうなほどに熱い。 恥ずかしさで頭がいっぱいで、さっきまでの話は頭の片隅に追いやられてしまっていた。 「……ふぅん?」 男が翠の瞳を細めて呟く。 「よく分かった」 俺はどこか嫌な予感を感じながらも聞き返した。 「な、何がですか……」 「お前にぶち込んでも、大丈夫ってことだな」 ニッと不敵に笑う男の口元が、やけに色っぽく見えて、顔がさらに熱くなる。 「そ……っ、そんな話ではないです!!!! 俺もう出ますから!!」 半ば叫ぶように言い残すと、足早に浴場を突っ切って、扉に手をかける。 「おう。風呂上がったら、部屋で待ってろよ」 「なっ、ななななんでですか!!」 背にかかった言葉を捨て置けず、思わず振り返れば、男はそれはそれは楽しそうに笑ってみせた。 「部屋まで待てねぇってんなら、ここでもいいぜ?」 男の言葉とともに、湯船から六本の触手がザバッと水飛沫をあげて姿を表す。 思わず引き攣った顔の俺に、先輩は楽しそうなままの顔で言った。 「あいつらに『ほっといてくれ』って宣言すんのは、その後だな」

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