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気付き

先輩はそれから毎晩、俺の部屋に顔を出してくれるようになった。 同じベッドに入って、俺の頭を撫でて、俺の話を聞いてくれて、俺が寝るまでそばに居てくれる。 週末には、俺を……可愛がってくれる……。 けど、翌朝俺が目を覚ますと先輩はもう居ない。 それが、どうしようも無く寂しかった。 そんな日々が少しずつ日常になってきた頃、俺は偶然、先輩が廊下で話している姿を目にした。 チーフ会議の後だろうか。会議室から出てきた人達は皆先輩と同世代かそれ以上で、先輩は飲みに誘われていたようだった。 「悪ぃな、週末はちょっと用事があんだよ」 苦笑を浮かべて、先輩は誘いを断った。 「何だその顔。彼女でも出来たか?」 先輩と同じくらい体格の良い大柄の男が、先輩の肩に腕を回してのしかかる。 「そんなんじゃねーよ」 と、先輩が笑いを含むような声で返す。 いつも俺の耳元で囁く声よりちょっと高い、明るい声。 それでも、俺は先輩のざらりとした声の響きに耳を撫でられて、小さく息を呑んだ。 「あー? その割には最近お前浮かれてんじゃねーの? 隠してねーで白状しろよ」 「浮かれてるか?」 「おーよ。つうか、棘がねぇな。お前、ちょっと前まですぐ殺気放ってたのに、なんか丸くなってねーか?」 「お前は俺を何だと思ってんだよ」 話しながら歩いている先輩達が、こちらに近づいてくる。俺は思わず階段の脇に身を隠した。 息を潜めて気配を消して。そんな俺の横を、先輩達は気づかぬ様子で通り過ぎていった。 「彼女なぁ……。ま、何つーか……。そんなもんかも知んねぇな……」 通りすがりに、ぽつりと落とされた小さな呟きは、俺の耳にすんなり入ってしまった。 どうしよう。心臓がドキドキする。 先輩が、俺に伝えるつもりのない言葉を。聞いてしまった。 俺に気付かなかった様子の先輩は、そのまま大柄な男に肩を抱かれたまま立ち去ってしまった。 すっかり小さくなった後ろ姿を見ながら、先輩には先輩に気軽に触れてくる人がたくさんいるんだなと思う。 俺には……。俺に触れてくれる人は、もう、先輩しか……。 俯きかけた頭を、俺は慌てて振る。 ここのところずっと先輩に言われていた。 俺を助けてくれる人はたくさんいると。 チームの仲間だって、皆、俺を恐れずに肩を叩いたりしてくれる。 こんな不甲斐ない俺を、それでも励ましてくれる先輩のためにも、彼女との約束のためにも、そろそろ立ち直りたいと俺自身も思い始めていた。 『もう一度会えるまで待ってるって、彼女と約束したんだろ?』 昨晩も、俺のすぐ隣で、先輩があのざらりとした声で問いかけた。 「そんなの……、生まれ変われるかなんて、誰にも分からないのに……」 俺の弱音を、先輩はしょうがない奴だなという顔で聞き流す。 「生まれ変わったって、俺のこと、分かるかどうかも分からないのに……」 ぽんぽんと、俺の頭をずっしりした大きな手が撫でる。 「お前はきっと、その子に会える。俺が保証してやるよ。だから、お前は諦めずに待ってろ」 なんの保証にもならないのに、先輩がそう言ってくれるだけで、なんだか本当にそうなりそうな気がして、俺は頷いて、目を閉じた。 俺がこの世で一人だけ、大切だった人。 彼女は殺されてしまった。 俺とのデートの待ち合わせに向かっていて、偶然、あの殺人鬼に出会ってしまった。 でも俺は、それを偶然では済ませられなかった。 場所も日時も、俺が決めていた。 『遅れないで』と言ってしまった。 もし、何か一つ。違っていたら……。 そう思えば思うほど、俺は彼女の死を自分のせいだと思っていった。 当時まだ幼かった俺を、責める人はいなかった。 ただ俺だけが、自身を許せずに責め続けていた。 「マル……?」 先輩の落ち着いた声が、ざらりとした感触で俺の耳へ入る。 ほんの少し心配そうな声の響きに先輩の顔を見れば、先輩は小さな翠の瞳で俺を見つめていた。 「またボーッとしてんのか。眠いならもう寝ろ」 俺と一緒に布団に入っている先輩が、文句を口にしつつ、それでもどこか優しげに笑う。 「あ……。ごめんなさい……」 今夜も先輩は、俺を寝かしつけに来てくれていた。 不意に、昼間たまたま聞いてしまった先輩の言葉が蘇る。 彼女のようなものかも知れないと、この人は言った。 俺の事……、で、間違いないと思う。 「先輩……」 「ん? 何だ」 俺が声をかければ、先輩は俺の隣で少しだけ目を細めて答える。 部屋にひとつだけ置かれたランプの光が、先輩の小さな瞳にチラチラと揺れる。 こんなの……。 だって、こんなの。本当に、恋人同士みたいな気がしてしまう。 「俺……、寝る前に、キスしてほしい、です」 思わず零した俺の言葉に、先輩は目を見開いた。小さな瞳がますます小さく見える。 「……ダメだろ? お前の唇は、その子のために取っとけよ」 先輩はそう言って、大きな手で俺の頬を包んで、指先で唇を撫でる。 「俺の初めては、……先輩が、奪ったくせに」 悲しいような悔しいような気持ちで言い返せば、先輩は申し訳なさそうに苦笑した。 「悪かったって。弾みだ弾み。事故みたいなもんだ。忘れてくれ」 こんなに優しくしてくれるのに。 毎晩、そばにいてくれるのに。 先輩は……、俺のことは、欲しくないんだ……。 そんな気付きに、情けなくも涙が出そうで、俺は枕に顔を突っ込む。 宥めるように、俺の頭を優しく撫でる先輩の手が、今は少しだけ辛かった。

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