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◎期待と諦め
翌日、いつものように勝手に鍵を開けて後輩の部屋に入れば、いつもと違う匂いがした。
なんだか懐かしくて、でもそれは決して思い出したくないような……、淹れたての紅茶の、ふわりとした香りが俺を包む。
なんだ? こいつは何も飲んだり食ったりしねーだろ。
「ごめんなさい、俺、今までずっと気付かなくて。先輩、喉渇いたりしますよね」
おずおずと、小さな机の上にカップが置かれる。
ああ、俺のために用意してくれたのか。
見れば、カップも新品のようだ。
そっか。こいつは食器も持ってなかったんだな。
俺のために、カップも茶器も、茶葉も、全部揃えたのか……?
「先輩……? あ、苦手な味とかありましたか? 俺、そういうの分からなくて、店員さんのオススメのにしたんですけど……」
「……お前、今まで茶なんて淹れた事あったのかよ」
俺の言葉に、後輩はシュンと小さくなる。
「いえ、その……、これが初めてで……。教えてもらった通りにやったつもりなんですけど、美味しくなかったら、ごめんなさい……」
――お……、俺のために、生まれて初めて茶を淹れた、だと……。
なんでそういう可愛い事ばっかりするんだ、こいつは。
後輩は、俺の動揺に気付く様子もなく、無知を恥じるように俯いたまま、小さな声で悔いる。
「お茶って、あんなに種類があるんですね。俺、全然知らなくて……。行く前に、先輩に好きな味を聞いておけば良かったです……」
「っ、心配いらねーよ、何でも飲める」
あんまり健気な事言うんじゃねーよ。押し倒したくなんだろ。
出されたカップを手に取れば、マルクスが慌てて告げる。
「あ、まだ熱いですよっ」
「こんくらいの量、熱湯でも火傷しねーよ」
赤くなりそうな顔を隠すようにして、俺はカップを煽る。
人とは違う身体は、熱を持った水分をそのまま体内へと吸収した。
「えっと……。おかわり、入れましょうか?」
俺のためだけのポットを持って、後輩が小さく首を傾げる。
「…………頼む」
断りきれずに、ずいとカップを差し出せば、後輩は小さく微笑んで香り立つ液体を注ぎ込んだ。
お前と触れ合うのに、喉なんか乾かねぇよ。
お前の汗も涙も、唾液も精液も、俺が全部吸収してるからな。
でも流石にそんなの、お前に言えるはずもねぇしな……。
こないだの、こいつの言葉がチリと胸を擦る。
『俺の……、吸収して、気持ち悪くないんですか……?』
声から嫌悪感は感じなかった。
ただ、不思議そうに尋ねられただけだ。
それでも、俺には十分だった。
こいつと俺が、違う生き物だと思い知らされるには、十分な言葉だった。
喉を通り過ぎる、熱と香り。
こんな風にちゃんと入れられた紅茶なんて、久々に飲んだな。
何の因果か、マルクスの買ってきた茶葉は、昔彼女が愛飲していたものと同じだった。
俺にも昔、長く付き合っていた女性がいた。
彼女は人間だったが、俺と……結婚の約束を、していた。
下半身までは見せていたし、彼女ならきっと大丈夫だと思っていた。
俺が人ではないと知っても、俺と居たいと言ってくれたから。
きっと大丈夫だと、俺は簡単に思い込んでいた。
だが、俺が元の姿に戻った時、彼女は騙されたと言って泣いた。
こんなのは、あんまりだと。これではまるで、化け物だと。
信じていたのに、酷い裏切りだと、言われた。
……俺には分からなかった。
何が、いけなかったのか。
俺が人でない事が『いけない』のなら、それは…………――。
「先輩?」
気遣うような声に、ハッとする。
どうやら、俺はカップを覗き込んだまましばらく固まっていたようだ。
「あ、ああ。いや、何でもない……」
「あの、お口に合わないようでしたら、無理しないでくださいね……?」
おずおずと、カップを引っ込めようとするマルクス。
そうか。味見もできねぇわけだし、こんな反応じゃそりゃ不安にもなるよな。
俺はカップに残った紅茶を一気に流し込むと、なるべく自然に笑って応えた。
「いや、美味かったよ。ありがとな」
不安げな後輩の頭をぐりぐりと撫で回せば、ほっとした様子に、俺もつられて心が解れる。
ああ……。俺はこいつを助けてやってるつもりでいたが、俺もまた、こいつに救われてるんだな……。
「先輩のカラダって、本当に不思議ですよね」
ぽつりと呟かれた言葉にマルクスの視線を辿れば、マルクスは、すっかりこの部屋では触手のままに慣れてしまった俺の下半身を見つめていた。
透ける触手の中に、今飲んだばかりの紅茶がそこだけ茶色っぽい塊に見えている。
ちっ、上半身を通り過ぎる前に吸収しとかねぇとだったな……。
苦い気分でそれを分解すると、マルクスは消えてゆく茶色い塊をじっと見つめていた。
「先輩……」
マルクスの白い手が俺の腹のすぐ下、擬態から触手へと変わった部分を撫でる。
ゆっくりと、愛しげに。
「先輩の身体って、透き通ってて、キラキラしてて、すごく綺麗ですね……」
うっとりと俺の触手の一本一本を眺めるマルクスへと触手を伸ばせば、マルクスはそれを両手で大切そうに抱き寄せて、頬をすり寄せた。
「……気色悪ぃだろ……?」
うっかりこぼしてしまった言葉を、冗談にしようと無理に口角を上げる。
そんな俺を、マルクスはきょとんと見上げた。
「そんな事ないですよ?」
そう言って、頬を寄せていた触手をぺろりと舐めて見せる。
「――っ」
……まったく。俺は本当に阿呆だな。
こんな、後輩の気遣いの言葉にすら傷付くんなら、ハナから聞くんじゃねぇよ。
誰になんて言われたところで、多分俺は、それを勝手に否定してしまう。
『そんな事を言って、俺の本当の姿を見たら、お前だって……』
そう心の奥底で叫ぶ声が消せないなら、そんな事、人に聞くなよな……。
「……先輩?」
何かまずいことを言っただろうか、と俺を気遣うような声に、無理矢理笑って答える。
「そんな真面目に返すなよ。冗談に決まってんだろ」
「そう、ですか……」
マルクスが、シュンと俯く。
いや、こいつを落ち込ませてどうするよ。
俺の触手の一本を握ったままのマルクスを置いて、俺は小さなテーブルからベッドへと移動する。
この狭い部屋の中なら、どこへ移動しようと触手の長さは十分に足りた。
「ほら、来いよ」
両手を広げて声をかければ、マルクスは嬉しそうな顔をして、素直に俺の胸に飛び込んできた。
「先輩……」
すり、とマルクスが俺の胸元に顔を押し付ければ、淡い色をしたプラチナブロンドが俺の首元をくすぐる。
「ん。どうした?」
「先輩は、俺には……入れたくないですか?」
マルクスの、どこか諦めを滲ませた、それでも縋るような声色。
俺は、返す言葉を見つけられないまま息を詰める。
「……俺、いつもしてもらってるばっかりで……、俺もお返しがしたいです……」
……無理だ。
俺の本当の生殖器は、元の姿でしか出せない。
それに、俺の精子は人には毒だ。
ここは触手を変化させて、それっぽくしてやるか……?
「ダメ、ですか……?」
不安げな瞳が俺を見上げる。
「別に、ダメって訳じゃねぇが……」
思わず、否定の言葉を口にしてから、惑う。
どうすりゃいいんだよ。
本当の姿を見せるのは、怖かった。
こいつが俺だと思ってる、この顔も、身体も。
こいつが気に入ってる俺の声だって、全部擬態だ。
本当の俺じゃない。
もう。二度と、あんな思いはしたくない。
「俺、先輩の……見てみたい、です」
マルクスは、ほんの少し恥ずかしそうに頬を染めて俺の胸元で言う。
「……見てどうすんだよ」
「俺ばっかり見られるの、なんか、悔しいじゃないですか……」
言って、マルクスは遠慮がちに、俺のシャツを捲り上げると中へ手を差し込む。
小さくて温かいすべすべの手が、俺の胸を撫でる。
……こいつ……本気で、俺に奉仕しようってのか?
俺は、諦めと期待でぐちゃぐちゃになりつつある胸中を抱えて、どうしたらいいのか分からないまま腕の中の後輩を見ていた。
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