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第2話

 目を覚ますと、私の散らかった部屋には明かりが差し込んでいた。遮光カーテンでも防ぎきれない日光に私は敏感なようで、少しでも明るくなると起きてしまう。おかげで一年中寝不足なのだと思う。そのせいか、よく「眠そうな顔だ」と言われた。  のろのろとベッドから出る。床には画集や専門書、新しく買った画材やモデルになりそうな物などが落ちている。ゴミの類はちゃんとしている、つもりなのだが。人によっては私の持ち物をゴミだと言う人もいるだろう。それは恐らく、価値観の違いだから仕方ないとして。  とはいえ、シノさんが来るのにこのままというのもまずい。私は床の物を端に寄せ積み上げると、それで片付けたような気になって部屋を出た。  リビングのほうは問題無い。料理と食事以外で滞在しないからだ。本来家族が暮らすだろう一軒家の、キッチンやリビングは広々としており、私しかいないことで冷えきっていた。  そこに温もりを持ってくるのが、シノさんだ。彼自身が温かい。この静かすぎる家に、音と温度をもたらす。彼が訪れることで初めて、ここは寝床や仕事場ではなく、家になるような気がしていた。  しかし、私はその考えを即座に止めて、首を振る。シノさんに、あまり深い感情を抱かないほうがいい。シノさんは私の「絵」や「カレー」、「画家であること」を好んでいるのであり、「私個人」を気に入っているのではないと思う。  私のような罪人が、愛されるはずもなく、愛されてはいけないのだから。私もまた、人を愛する資格など無い。  考えるほど憂鬱になる。私は全ての思考を溜息と共に吐き出して、キッチンへと向かった。  冷蔵庫から鶏もも肉を取り出し、一口大に切って下味をつける。フライパンで皮の色が変わるほど炒め、中まで火が通るか通らないかというところで火を止めた。もう一度冷蔵庫に向かい、鍋を取り出す。  なんとも言い難い、深い緑色の、ドロドロした液体。初めて見た時には食べ物かどうか悩んだものだが、今となってはスパイスの香りが食欲をそそる。昨晩作っておいたそれは、サグカレーという。  ほうれん草ペーストと炒めた玉ねぎ、トマトをベースに、にんにくやショウガを効かして。ガラムマサラ、シナモン、クミンなどスパイスを混ぜて煮たものだ。二日目の今日はここに鶏肉を入れて、食べる前にチーズでも乗せようかと思う。  サグカレーの中に鶏肉を入れ、温める。ふつふつと表面が踊り始めると火を止め、再び寝室に戻った。  やっぱり、もう少し掃除をしよう。  シノさんはもう何度もこの家や私の寝室を訪れている。もう私の自堕落な暮らしぶりなどすっかりバレているのに、どうしてだか気恥ずかしい。のろのろと掃除機やウェットティッシュを用意して、私はこの、一人暮らしには少々広すぎる家を掃除してまわった。  とはいえ、ひととおり終わっても、まったく変わったようには思えず、首を傾げながら諦めることにした。私の気持ちに反して、おそらくシノさんは部屋がどうであろうと変わらないのだろう。  何もかもを諦めると楽になるものだ。私はひとつ溜息を吐いて、1階のアトリエに向かった。  元々この物件は、アトリエ兼住居をコンセプトに作られたものらしい。コンクリート打ちっぱなしの壁が寒々しい部屋はアトリエ部分で、専用の出入り口が玄関とは別に作られている。  私は名目上、アトリエを公開している。だから、人を受け入れる気分の時はその扉の前に「ご自由にお入りください」という社交辞令の札を掲げていた。今のところ、シノさん以外の人が来たことはないのだが。  木の作業机、ところどころ絵の具で汚れた棚。描き上がった絵の殆どは布をかけてアトリエの隅に追いやり、気に入っている作品は一応壁にかけたりもしている。あとは私の作業中のキャンバスがいくつか。それらが並んだ、こちらもお世辞にも片付いているとは言い難い部屋に、ぽつんとソファが置かれている。  2人がけ、あるいは3人がけの大きなソファだ。母は「お客様が来た時に座ってもらって」と置いて行ったが、正直に言えば今となっては少しありがたい。ソファに背を向けるように椅子に腰掛け、キャンバスに向かう。  今描いているものは……正直に言えば、私にも何なのか、わからない。近頃私の周りに渦巻いている感情に色を乗せ、形を作り気の赴くままに筆を走らせているものだ。それはオレンジやピンク、白や紫、緑や藍色の混ざり合った渦のようでもあるし、丸まった何か動物のように見えなくもない。  何にせよ、私自身の心が反映された絵は、いつ見ても未完成だ。私は今日もそれをじっくり眺めてから筆をとる。今日はもっと、何か青の強い気分なのだ――。 「タマさん」  声をかけられて、ハッと顔を上げる。またやってしまった。シノさんが来たのにも気付かずに絵を描いていたのだ。振り返ると、シノさんが手元に麦茶のペットボトルを置いてくれていた。 「水分補給、してくださいね」 「あ、すいません……また気付かなくて」 「いいえ、大丈夫。気付かれないように入っただけですよ。……今日も、ソファで見せてもらっても?」  シノさんはそう首を傾げる。オフの彼は、普段のスーツ姿でないとはいえ、私よりはずいぶんきちんとした服装をしている。暑くなってきたのに長袖のシャツを着ていたし、ズボンだってきっちりアイロンがかかっている。靴も革靴なのだ。その左手首には今日も腕時計が巻き付いていた。 「あ、はい。退屈じゃありませんか?」 「まさか。タマさんを後ろから眺めているのはとても楽しいですよ」  事実だとしたらそれはそれで気恥ずかしい。私は顔を掻いたけれど、シノさんがいつものようにソファに座ったのを見届けると、私も自分の世界へと戻った。  以前からこうして己の心に向き合うことはあった。  私の中は暗い雨雲と、アスファルトの色、そして滲み出る血の色の混ざった色をしている。罪と後悔、悲しみと懺悔、死と生、私がここにいる意味を問う暗い色の絵になることが多かった。若い頃は母や学友にも心配されたものだけれど、それこそが私の見ていた世界だった。  しかし、ここ最近は違う。私の世界には暖色が混ざり始めたのだ。それでも、明るいばかりの絵にはならない。私の疑念は強く、どんな時でも背後にある。けれど、以前の私とは確実に違うのだ。  その原因は、考えるまでもない。  私は、シノさんのことを考えてしまっているのだ。

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