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 シノさんは個展で別れて2週間後の日曜日、私のアトリエを訪れた。  彼はおまんじゅうを持って来ていて、私が甘い物好きであることを告げると嬉しそうに微笑んでくれた。  彼は私の作業環境や、個展には持って行かなかった絵を興味深そうに見ていた。なんとも気恥ずかしかったが、「どうぞタマさんは作業をしてください」と言われ、「では失礼して」と私は絵を描いた。  妙な言い方にはなるけれど、シノさんは気配を消すのがうまい。いつのまにか私はシノさんがいることも忘れて、絵に没頭していた。ふう、と息を吐き出して、シノさんのことを思い出す。彼は私の後ろに置かれていたソファに腰かけて、こちらを見ていた。  休憩しますか? と微笑んだシノさんに、私は頷いて。それから私は彼と話をするようになった。  他愛もない話だ。好きな食べ物だとか、画家だとか。大した話はしなかった、それでもどういうことかとても楽しかったのだ。シノさんが私の話を熱心に聞いてくれたからかもしれないし、彼があんまり優しく微笑んでくれたからかもしれない。  だから私はシノさんが「来週もお邪魔して大丈夫ですか?」と尋ねた時、すぐに頷いた。  シノさんと話すのが楽しいと思い始めて、月に3回会うのを待ちわびるようになるまでそう時間はかからなかった。それにある時、平日の昼間、公園でスケッチをしていたら偶然シノさんに出会った。それからは、かなりの頻度でそちらのほうへ足を運ぶように。  シノさんとの出会いは、私の生活を大きく変えていたのだ。  彼は私の手料理を、特にスパイスカレーをとても気にいってくれて、笑顔で美味しいと言ってくれる。それも嬉しくて、「泊まっていきませんか」なんて、言ってしまって。  シノさんも頷いてくれたものだから、私たちは週末の夜、なんということはない会話と時間を繰り返した。  私たちの仲は、知らぬ間に深まっていたのかもしれない。でなければ、あんなことにはならなかったはずだ。  そしてシノさんと知り合って、4カ月ほどが経った頃だろうか。  シノさんが、言ったのだ。 「僕、タマさんの絵が好きです。だから、セックスしませんか」  脈絡のない提案は私を大いに混乱させた。しかし、人間というのはよくできたもので、二つの言葉が有ればその関連を勝手に想像できるのだ。私はシノさんとの関係性を考え、ひとつの結論に辿り着いた。  シノさんは、私の描いた作品が好きなのだ。そして私と接触し、性的に繋がり密な関係を築くことは、作者と、作品と一つになるようにもとれるかも。私にはシノさんの考えていることはあまりわからないから、推測でしかないけれど。そうでもなければ、シノさんのように人当たりが良く明るい人が、ましてや男が、私のような男にそんなことを言い出すわけがない。  シノさんに愛されているのが私ではない、という結論は、心を軽くさせた。そして私は、その提案を拒絶しないほどには、彼との関係を気に入っていたのだ。 「でっ、でも、その、私はそういうことを、した経験がないんです」  素直にそう言えば、シノさんはいつものように微笑んだ。 「大丈夫、僕に任せてください。初めてのタマさんに、受け入れさせるようなことはしませんよ」  そう囁かれて、私は小さく頷いた。  それから私達の関係は、一線を越えてしまったのだ。身体だけは。  作業を終えて振り返ると、シノさんがソファに横たわり眠っていた。  近頃、そうしたことが増えている。シノさんは仕事で疲れているのか、睡眠不足なのか、私の作業を見ながら眠るようになった。それは退屈だから、ということではないらしい。初めてシノさんが寝落ちしていた時に、彼は珍しく慌てふためいて言った。 「ごめんなさい。タマさんの後ろ姿を見ていると、安心してしまって……」  別に私はシノさんが眠っていたことを怒ったわけでもないのだけれど、そう言われてしまうとなんだか顔が熱くなる。 「気にしていません、疲れているのなら眠ってください」  と答えて以来、シノさんが眠ることも増えてきた。  今日も、シノさんは随分深く眠っているようで、私が近づいても目を覚さなかった。シノさんの寝顔はとても安らかで、安心しているというのは事実かもしれないと思う。  シノさんは、こう言っては変かもしれないけれど、美人だと思う。そうした意味でも不釣り合いなのだ。私はお世辞にも男前ではないし、眠そうな眼だと良く言われるし。  どうしてこの、美しくて優しい人が、私のそばに……。そう考えて、首を振った。シノさんがそばにいるのは、私の絵が好きだからだ。それ以上の何者でもないというのに。 「……シノさん、シノさん」  眠っているのを起こすのは申し訳ないけれど、声をかける。シノさんはゆっくりと目を開いて、んんと小さく呻いた。 「ああ、すいません。また寝てしまいました……」 「いいんです、きっとお疲れなんでしょう。大丈夫ですか? 今日の作業は終わりましたから、部屋に行きましょう」  手を差し出すと、柔らかく握り返される。シノさんはゆっくりと体を起こして、私の顔を見上げた。  その瞳は静かに、しかし私の奥のほうまで貫いてくる。 「……タマさん。今日はよければ、食事の前に……したい、です」  何をしたいのか、聞くまでもない。私は驚いて、しばらく答えに窮した。しかし「無理にとは言いません」と続けられて、「わかりました」と頷いた。  シノさんがゆっくり立ち上がる。彼はそのまま、私に手を伸ばす。いつも同じ、私はシノさんの望むまま、彼に応えるばかりだ。その腕が私の背中に回るのを待って、私もまたシノさんを抱き締める。  シノさんからはいつも、少しだけ甘い、けれど爽やかな香りがした。それがいい匂いだと思っていた。今はその香りが、これから私たちに起きることの予兆のようで、落ち着かない気持ちになるのだ。

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