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第4話
『落書きしか描けないくせに親の金に甘えて、いいご身分だな。早く死ねよ』
今日も届いた。私は一度駅の天井を見上げて、そっとメッセージを閉じる。
それは一年ほど前から、誰から届いているともわからない中傷だ。次第にエスカレートしているそれを、私は見て見ぬフリを決め込んでいる。このメッセージの言っていることは、ある程度確かだと思っていたから。
働かずしてこんな家に住ませてもらっていることも、好きなだけ時間を絵に注げることも、全て私の力などではない。シノさんは優しいから、親の七光りをよしとしてくれるけれど、やはり私はそれを恥ずかしく思う。
絵の勉強はしているつもりだ。まったく努力をしていないと言われれば、少々反論したい気持ちにもなる。しかし、私の精神世界をただ描き出しただけのものが、果たして落書きでないのかわからない。母もシノさんも私の絵を褒めるが、大半の親族はチラリと一瞥して、なんとコメントすべきか考える顔をするのだから。
いや、あるいはそれすら私の卑怯な部分なのかもしれない。曖昧な絵には上手下手の評価が下しにくいものだ。まして私は品評会の類に作品を出さない。絵を売ったこともない。それは私が未熟であり、評価に値しないと思っているからかもしれない。また同時に、そうした場に身を晒さなければ、そもそも評価が行われないと思っているのかもしれなかった。
私は人を死なせたうえに、逃げながら生きているのだ。そのくせ、母やシノさんには大切にされている。さぞかし目障りで、醜悪な存在だろう。このメッセージの主の言いたいことはわかる。だから私はこのメッセージのことを誰にも相談しなかった。これは、送り主と私との問題だ。母に言えばきっと弁護士などを用意するに違いない。せめてここでだけ、私はこの罰と向き合いたかったのだ。
「タマさん」
私の思考は、シノさんの声で止まった。振り返ると、シノさんがいつものように上品な姿で立っている。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いえ、大丈夫です。先ほど来たばかりで」
メッセージがシノさんと合流する前に来てよかった。シノさんとの時間は、私にまつわる全ての罪とは別にしたい。罰を受けると決めていたのに、私はいつの頃から救いを求めていた。
「では、行きましょうか」
シノさんはなにも気付かない様子で、改札へと歩いて行った。
その日は、雲ひとつ無い晴天が広がっていて、私は皮肉な現実に苦笑してしまった。シノさんもクスリと笑ったけれど、特に文句を言ったりはしない。
「今日はちゃんとデートができそうですね、タマさん」
駅から空を見上げて呟いたシノさんに、私はぎこちなく頷いた。
私の雨男っぷりが証明されても、シノさんはデートを諦めなかった。むしろ、どうにかして一緒に行く方法を考えてくれる。そして、最初から雨など関係が無い、屋内へ行きましょうと提案したのだ。
正直、私にとって遊園地というのはハードルが高すぎた。人は多いし、賑やかだし、アトラクションの類は心臓に悪い。どう楽しんでいいのかわからず、気まずい思いをする予感はあった。そのような、「本当は行きたくない」という気持ちが、私を駅へと引き返させたのかもしれない。
そうして私が嫌々行動するのを、シノさんも望んでいないようだ。彼は私と改めて話をしてくれて、私でも行ってみたいと思うような場所にしようと配慮してくれた。そして私は、水族館を指定したのだ。
そこもいわゆるファミリー・デートスポットであることに違いはない。しかし遊園地と違って大声で叫んだり、はしゃいだりする場所ではないだろう。屋内では子供たちも走ってはいけないと言われるものだし、カップルたちはしっとりと水槽を眺めているイメージがある。何より、魚への配慮からか館内は大抵の場合、青く薄暗い。そうした静かな空間でなら、私も存在していられると思ったのだ。
水族館は海上の人工島に建っているそうだ。候補はいくつかあったけれど、特にこだわりがないと伝えたところ、シノさんはここを選んだ。駅を降りたところから、家族連れがたくさん歩いているのは先日と同じだったが、私は落ち着いていた。子供連れの半数は、水族館の前の遊園地エリアへと吸い込まれていったからだ。
「ここだと、どちらもありましたねえ」
シノさんはそう笑ったけれど、遊園地も行くかと提案はしてこなかった。私もシノさんも、気持ちはすっかり海に向いていたのだ。
人工島に向かう電車の中で。窓から外を見ていたシノさんは、私に「海、海ですよタマさん」と明るい声をかけた。私もつられてそちらを見ると、日差しを反射してキラキラ輝く内海が目に入ったものだ。
海を見るなんて、いつぶりだろう。私は隣のシノさんと共に高揚した。もちろん、電車の中の子供たちも、その親たちも同じような様子になり、駅への到着を待つ車内は知らない者同士一体となったように、海への期待で温かくなったのだった。
この人工島は、レジャーの為に作られたもののようで、島全体が施設で覆われている。小規模ながらも遊園地が有り、商業施設も存在しているから人並みは別れ、目的の建物に着いた頃には半数ほどになっていた。見上げた水族館は、ガラス張りの壁面が海と同じように陽光を反射し、輝いて見えた。
「さあさ、タマさん。さっそく入りましょう」
シノさんはいつになく弾んだ声でそう言い、チケット売り場の列へと導いた。嬉しそうだ。水族館を楽しみにしている空気が伝わり、自然と私も早く入りたくなる。いい空気だ。普段は重苦しく恐ろしい周りの人々さえも、良い存在のように思えた。
チケットと共に館内の案内マップをもらい。私たちははしゃぐ子どもたちに道を譲りながら、ゆっくりと建物内へと進む。
シノさんは、彼にしては珍しく私のペースに構わず、目の前に広がった大水槽へと歩み寄った。アクリルで隔てられた海を見上げ、子どものように目を輝かせる彼の姿は新鮮で、私は周りのあらゆる音や人を忘れ、シノさんの横顔を見つめてしまった。
こんな、キラキラした顔もするのだ、この人は。
胸が、高鳴る。
「タマさん、見てください。ほら、ジンベエザメですよ、大きいですね……!」
指差すほうを見れば、他の魚たちとは明らかにスケールの異なるものが、優雅に尾びれを揺らめかせている。無数の白い斑点を身に着けた黒い身体は、水中で青にも灰にも見える。白い腹を私たちに見せながら、それは小さな魚たちの泳ぐ水槽をゆったりと泳いでいた。
「……本当に、大きいですね。私は初めて見ました」
その神々しい光景にそれ以上の言葉を失ってしまった。ややすると近くで子どもたちもはしゃいでいるのが聞こえる。子どもも大人も、シノさんも私も。水槽を見上げて、それぞれの感想を抱いているのだろう。私たちはしばらく、言葉も交わさずに水槽を見上げていた。
あのサメは、そこに生きているだけでこんなにも人の心を動かすのだ。
「……素朴な疑問ですが、あんなに大きなサメなのに、魚と同じ水槽で大丈夫なんでしょうか」
「平気ですよ、ジンベエザメはああ見えて、魚を食べません。主食はプランクトンですし、現代の魚類では最大の体長ですがとても穏やかで、いわゆる人食いザメみたいな存在とは程遠いんですよ」
シノさんはよどみなくそう説明してくれて、私は思わず彼を見た。シノさんは目を輝かせていて、そんな彼の目の前を一匹のエイがふわりと通り過ぎる。
「ホシエイだ。かわいいですね。彼らもエイとしては大きいです」
「……シノさんは、お魚に詳しいんですね」
私としては感心と敬意をこめて言ったつもりだったけれど、シノさんは別の意味にとったらしい。はっと私の顔をみると、「すいません」と気恥ずかしそうに俯いた。
「いえ、そんな。シノさんにお話を聞かせてもらえて、私も水族館をより楽しめていますよ」
「そ、そうですか……? すいません、子どもの頃から好きなことになると夢中になってしまうところがあって……」
シノさんが? いつも穏やかで優しいシノさんにも、そういう一面が有るのかと思うと、不思議な気もした。しかし、そのギャップがまた愛しい。私は思わず微笑んでしまった。
「よければ、他の魚の名前も教えてもらえますか?」
「え、ええもちろん。タマさんがよければ」
シノさんも悪い気はしていないようで、最初こそ私の顔色も窺っていたけれど、やがて夢中で水槽を指差し、魚の名前と生態や、その愛らしさについて大いに語ってくれた。シノさんは気付かなかったけれど、周りの人もシノさんの説明に耳を傾けていたようだ。そうして好きなことを語る彼はとても輝いていて、幸せそうで。私まで満たされたような心地になる。
水族館に来てよかった。来たばかりだというのに胸の内で思った。
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