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 しばらくして、私は水槽を見るためのベンチが壁際に置かれていることに気付いた。長居をしないようにか、お世辞にも座り心地が良さそうではなかったから、使っている人はまばらだ。しかし私は日頃の運動不足が祟って少々疲れてもいたし、かといってシノさんとの時間を切り上げるつもりもなかった。  ベンチの存在を告げると、シノさんは「ちょうどよかった、一休みしましょうか」と言ってくれる。どこまでも私を立ててくれる優しさがありがたい。二人で腰かけると、水槽は遠くなったけれどその分視界に変化が有った。  家族連れやカップル、あるいは友人同士で来た人々が、思い思いに水槽を見上げ、スマホを構えたり魚を指差したりしている。青に彩られた空間に差す、僅かな光で照らし出され、平和と幸福の象徴のように思えた。 「……タマさんは、水族館に来たことは?」  目に映る光景へ感じ入っている私に、シノさんが尋ねる。 「有るには有りますが、ずっと昔のことで。あまり覚えていないんです」 「そうなんですね。僕も久しぶりに来ました。水族館は僕にとって思い出の場所なんです。子どもの頃から本を読むのが好きだったんですけど、中でも図鑑がお気に入りでしてね。魚類図鑑が楽しくて、本物を見たいと父に頼んだんです。忙しい人でしたから、なかなか連れて行ってくれませんでしたが、一度だけ一緒に来ました。それがたまらなく嬉しくて……」  シノさんを見ると、彼は何か思い出しているようで、いつにもまして優しい笑みを浮かべていた。それがシノさんの記憶を如実に語っているようだ。そのような場所に、私と共に来たのだ、この人は。 「……タマさんは、子どもの頃から絵がお好きだったんですか?」 「ああ……そうですね。私も小さい頃から絵を描くのが好きでした。描いている間は……余計なことを考えずに済むので」  私は言葉を選んでしまった。私にとって絵が特別な意味を持ったのは、あの日からである。  人を死なせてしまった、あの日以降。母や医者の勧めで絵を再び描き、自然とのめり込んでいったにすぎない。私にとって絵は、治療の一環であり私を現世に留めておく手段だった。 『落書きしか描けないくせに親の金に甘えて、いいご身分だな。早く死ねよ』  今日届いたメッセージを思い出す。絵が無ければ、私は望み通り、この世界にはいなかったかもしれない。あの人物を深く怒らせてしまったのは、私が生き延びて絵を描いてしまったからだろう。私がいなければ、中傷を人に送るほど思いつめ、憎み苦しむこともなかったのだ。  悪いのは私。私があの人を追い詰めている。しかし、私は傲慢だ。まだ、その望みを叶えてあげられない。困ったことに、生への執着を捨てられないままで、おまけにそれは日に日に強くなっているのだから。  シノさんとの時間が、私とこの世界との繋がりを深めている。 「タマさん?」  声をかけられて我に返る。いけない、シノさんと一緒にいる時ぐらい、夢想するのは止めなければ。この時間に集中したい。じっくり味わい、思い出にしていきたい。  シノさんは気を悪くした風でもなく、私を見つめている。何か言わなければ、と焦って口を開いた。 「シノさんが楽しそうにしているの、珍しかったです」  これは、失言ではないだろうか。 「そうですか? 僕はいつも楽しいですよ。タマさんと過ごすのは」  シノさんはやはり私の心配などに関係無く、優しい。どうしてこんなに優しくて完璧な人が、私などのそばにいてくれるのだろう。私は、シノさんに愛されるような人ではないのに。  私には、わからなかった。

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