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   あの日。  タマさんは、父に手を繋いでもらい。バス停へと向かっていた。  その時の父の様子を、タマさんはあまり覚えていなかったようだ。事故のことを思い出したくないあまりに、記憶から消していたのかもしれない。  しかし、タマさんは僕と、僕たちの関係と向き合おうとした。  そうすることで、思い出したのだと言う。 「あの日、あなたのお父様は、バス停に向かうまでの間、いろんな話をしてくれたんです。不安げな私を放っておけなかったのでしょう。その中で、彼はあなたについても語っていたんです」 「……僕のことを……?」  タマさんは、はいと頷く。僕の脳裏にも、その日の様子がありありと思い浮かべられた。  雨の街、手を繋いで歩く、父と幼いタマさん。傘も道路も雫の落ちる音を反射する中、父はきっと微笑みを浮かべていた。タマさんは……きっといつものように、不安でしかたないという気持ちが溢れ出た表情をしていたことだろう。 『おまわりさんにもね、君と同い年の息子がいるんだ。一人っ子なんだけど』  その声は、雨音の中でもはっきり聞こえたらしい。タマさんは、黄色い傘の合間から見上げる。父は前とタマさんの顔を交互に見つつも、優しい表情で続けた。 『君を見ていたら、息子も不安なことはあるんじゃないかと考えてね。利口な子だからひとりでも大丈夫だと思っていたけど、もしかしたら寂しい思いをさせているんじゃないか、我慢してるんじゃないか……って。帰ったらたくさん話を聞いてあげたいな。彼はね、おまわりさんの……『世界で一番大切な存在』なんだ』  だからきっと、君の親御さんも心配しているよ。そんな主旨の話だったようだけれど。  僕はタマさんの語ったことに、しばらく何の反応も返せなかった。  世界で一番、大切な存在。  その言葉を、頭の中で何度も繰り返す。  それが自分に向けられた言葉だなんて。信じられなかった。 「タマさん……それは、でも……」 「都合のいい作り話、みたいに思いますか?」 「……いえ。タマさんは、そんなことをする人ではないと思います……」 「本当に?」 「本当です。しかし……だとしたら、それは……」  僕の手は、小さく震えていた。  それは、僕のこれまでの、物心ついた時から持っていた世界を、根底から揺るがす事実なのだから。  父は。社会を愛していた。仕事を愛していた。多くの人を、母を愛していた。だから、僕はそれよりも下で、つまり誰の特別でもなく、価値の無い人間なのだと考えていた。  なのに。タマさんが語ることを真実とするなら、それは――。 「お父様は、シノさんを特別に愛していたんだと思います」  タマさんの静かな言葉に、胸が痛む。どくどくと、鼓動の音が聞こえるような気さえした。  それは、僕の見ていたすべてを変えてしまうような、真実。僕はその痛みに、思わず俯いた。  この殺風景な部屋はいつも通りなのに、世界がグラグラと揺れているかのようだ。 「……お父様は私を庇ってくれました。正義感と責任感に満ちた人だったんでしょう。でも、あなたのところに帰りたいと……帰るのだと思っていたはずです。いえ、思っていました」 「…………」 「シノさん、あなたは決して、いらない存在なんかじゃありません。少なくとも、お父様と私にとってはかけがえのない人です。そしてあなたにだって、幸せになる権利が有ります。だから……こう言うのが適切なのかわからないけれど。ご自分を許してあげることは、できませんか」 「……自分を、許す……?」 「はい。もし誰かに許してほしいのなら、私が許します」  どこかで聞いたような言葉に、ゆっくりと顔を上げる。タマさんの真剣な眼差しが見えて、息を呑んだ。そして彼は、静かに僕へと手を伸ばす。  僕の手のひらを、タマさんは優しく包み込んだ。まるで、いつかの僕のように。 「あなたは特別な、愛されるべき人で……それを奪った「人間の力ではどうしようもないこと」を悲しんでもいいんです。いっそ憎んだっていい。そして、その先にあるあなた自身の幸福を手に入れたって、いいんです。それを私は望んでいます。あなたに、幸せになってほしい。心から笑顔でいてほしい……」  タマさんの言葉はそこで途切れた。続きを待つ間に、僕の視界が歪んでいく。ぽたり、と音を立てて、僕の眼から涙が一筋落ちた。  僕の。僕がこれまであきらめていた全てが。許されたのだ。  ぽたり、ぽたりと、またひとつ涙が零れ落ちていく。喉が焼け付くようで、言葉も作れないまま、僕はきっと酷く表情を歪めていただろう。耐えられなくなって、小さく震えながら俯いても、タマさんは僕の片手を強く握ってくれた。  父が僕を愛していないように。僕もまた、父を愛していないのだと思っていた。思いたかった。  だってそうでなければ、悲しすぎる。愛していた人を失ったことに耐えられない。僕は、父を奪った加害者と、そして父が守った飯田タヅマを許せなくなるかもしれなかった。  そんなのは嫌だ。世界には、人の力ではどうにもならないことがあって、誰も悪くないのに。それを責めることも、憎むこともしたくなかった。許したかった。父が教えてくれたような、そんな人間で、ありたかったのだ。 「……シノさんは、お父様を愛していらっしゃいますよ……」  でなければ、毎月お墓参りへ行き、あんなに美しくするものですか。あのお墓を守っているのは、もうあなたしかいないのに。  その言葉に、また涙が溢れた。はぁっ、と吐き出した息さえ震えている。 「……ごめんなさい。あなたの大切なお父様を、奪ってしまって……」  タマさんの言葉に、僕は激しく首を横に振った。  魂に誓って。あなたは悪くない。あなたを憎んだことなど、恨んだことなど一度たりとも無かった。そして今も。  そう伝えたいのに、言葉にならない。代わりに、タマさんの手を強く握り返す。  この世界には、人の力ではどうにもならないことがあって。  誰も悪くないのに、悲しいことは起きて。誰も悪くはないのに、罪と罰が生まれる。誰も悪くなくても、命が失われることがある。  ただそれだけで。タマさんだって、何も悪くはないのだから。 「……っ、うぅ、う……っ」  それでも、それでも。  優しかった父の微笑みが、涙で滲んだ視界の中、鮮明に蘇る。父の優しい声を、あの手のひらの温もりを思い出す。  たくさんの本を買ってくれた。たくさん話を聞いてくれた。水族館へ行って、いくらでも僕が指差す魚を追って、一緒に笑ってくれた。  ずっと前に失われた全てが、ようやく。  ようやく僕の胸に戻ってきたような気がして。 「――――!」  僕はその時初めて。  父の為に、泣いた。

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