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第27話 こうしていて

 彼の瞳がふわり、とまた揺らめく。揺れるその目のまま、彼は苦しげに言った。 「どうしてと、聞かないでと言ったはずだけれど」 「じゃあ、聞き方を変える。ああすることであんたはどんな気持ちになったの」  彼は問いになにかを応えかけた。唇がわずかに開き、閉じる。その彼に陽向は問いを重ねた。 「憎い相手を困らせることができて、気持ちが晴れた?」 「そう、かもね。だとしたら君はどうするの」  問いに問いが返される。けれどそう返してなお揺れる彼の瞳に陽向は確信した。  この人は違う。  捕虜にした相手を好き勝手にしてそれで満足を得る、そんなことができるような人ではない。  いや、そんなこと、これまでの彼を見ていればわかることだ。  思い出すのは、彼が差し出してくれた粥の白い湯気。痛みを与えないよう気遣いながら体を起こしてくれる細い腕。  熱が下がって良かった、と安堵を滲ませ囁いた声。額に触れた、温度の低い指先。  口づけたあの瞬間だって、彼の瞳には憎悪などかけらも滲んではいなかった。  けれど彼は言わない。あのときどうして陽向に口づけたのか、言わない。  そこにどんな理由があるのか決して口にしてはくれない。でも。 「あんたの心が晴れたなら俺はそれでいいよ」  くっきりとした声で言うと彼は大きく目を見開いた。その彼の肩を片腕でもう一度胸に引き寄せ陽向は乞うた。 「あんたが望むようにしてくれていい。俺が傍にいてそれであんたが少しでも安らげるならそれでいい」 「やがてここから去っていく人のくせに」  くすり、と彼が笑う。その彼に陽向は言い放った。 「あんたが望むなら帰らなくても構わない」  さすがに驚いたのか彼が息を止める。その彼に向かって陽向は告げた。 「確かに里には愛着だってある。俺を育ててくれた祖母のことだって心配だよ。でも……俺はそれと同じくらいあんたが気になってたまらない。あんたが苦しんでいるのは俺たちのせいなのに」 「馬酔木になにを言われたかは知らないけれど、そんなんじゃないから。地上の毒消しはもともと僕の役目で……」 「あんた、今自分がどんな顔しているのかわかって言ってんのかよ!」  怒鳴ると彼が驚いたように肩を揺らした。けれど陽向はやめなかった。 「真っ青で……今にも倒れそうで。でもなにも感じていないみたいな顔で笑って。そんな顔をし続けるのは長だから? でも俺にまでそんな顔をする必要はないだろ! 俺はあんたが守らなきゃいけない里の人間じゃないんだから。むしろあんたにとっては憎い相手の一員なんだから」  目の前が霞む。くそ、と呻いて顔を背ける陽向の目尻を冷たい指がなぞった。驚いて顔を戻すと陽向の涙を細い指先で拭いながら彼が笑った。  どうしようもないくらい悲しく見える顔で。 「個は個でしかない。一族がどうであれ君は君だ」  言いながら彼はそうっと腕を伸ばして陽向の後ろ頭を撫でた。 「確かに君たち一族に思うところはある。それは確か。でも君たち一族もまた個が集まってできただけのものだとも思っている。君のおばあ様も君を愛しているただの人。それだけのこと。だから君は戻らなきゃいけない。君を待っている人がいる場所へ」 「じゃあ、あんたは? 長とか関係なく、あんたをあんただからと案じてくれる人はいるのか?」  彼はその問いにひっそりと微笑んだ。いるともいないとも言わない彼にさらに詰め寄ろうとすると、陽向、と穏やかな声が名前を呼んだ。 「君の怪我はやがて癒える。そうしたら君を里の近くまで送っていくよ。それで終わり。もう会うこともない」 「そんなの!」 「でもだからこそ、僕は君に頼みがある」  嫌だ、と言いかけた陽向を遮り、楓は吐息のような声で陽向の耳元に囁いた。 「ここにいる間だけ、こうしていてくれないだろうか」  声と共に、黒い衣に包まれた腕がするりと伸びて陽向の頭を抱きしめた。 「こうしていると少し楽になる気がするから。だから」  力をかけない柔らかなその抱きしめ方に陽向の胸がずきりと疼く。怪我の痛みではなく心のもっと内側から発したその疼きに陽向は我慢できなくなった。  体が痛んでも構わなかった。片腕でぎゅっと力の限り彼の背中を包むと彼がふっと耳元で息を飲んだ。 「骨がまだ」 「いい、そんなの」  でも、とこちらを見た彼の黒い目が揺れる。その揺れが愛しくて、先ほど触れたばかりなのに触れたくて、陽向は彼の唇に口づけを落とした。  等しく重なっていたはずの熱はすでに彼の唇にはなかったけれど、繋がった唇の間で温度が再び釣り合っていく。その変化が嬉しくてなおも深く口づけた陽向に、彼は戸惑いながらも口づけを返してくれた。

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