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第29話 桜

「俺も親はいないよ。採石所の事故で父親は死んで、母親は病気で。そこからはばば様に育てられて。友達ってのも別に。つまらない人生だよな」 「人生を語るには君はまだそれほど歳を重ねていない」  諭すように言い、彼は膝の上の本の表紙をそっと撫でる。『桜の森の満開の下』と読めた。 「桜、か」 「知ってる?」  問われて陽向は曖昧に頷いた。 「実際に見たことはない。けど近所に如月って人がいてその人があんたみたいに本を集めていたんだ。その人に見せてもらったことがある。白に近い薄紅色の花弁で木いっぱいに咲くとても綺麗な花だった」 「そう、そして散るときこそもっとも美しいと思わせる花」  静かな声が落ちる。細い指で本の縁をなぞりながら彼は囁いた。 「この話はね、桜の妖しさに心乱され、大切にしていたものを自ら壊した上、桜の花弁にすべてが沈んで消えていくという話。美しく残酷な物語」 「楓?」  呼びかけると、彼は少し笑って本を手近な椅子の上に置いた後、腕を伸ばして陽向の首にするりと回した。 「それも悪くないかもしれない」  吐息のような声だった。静けさに沈んだその声で彼は囁きを重ねた。 「花弁に埋もれて全部全部消えてしまうなら、それはもしかしたらとても幸せなことかもしれないから」  陽向がここで暮らすようになってもうすぐ二か月。その間、彼がここに現れない日が数日あった。その間、彼がなにをしているのか詳細は知らない。だがそのうちの何度かは地上へ行っているらしいと聞いていた。  そして現れなかった翌日、彼は決まってやつれた顔でやってきて、陽向の肩にもたれて黒い瞳を虚無の色に染めて笑った。  羽の破れた蝶が木陰でひそやかな息をつくように肩に頭を預けて笑う彼。  できないことはわかっている。それでもその顔を見るたび言いたくなってしまう。  なにもかも捨てて共に逃げよう、と。  でも彼はそれを陽向に言わせない。 「だいぶ、良くなってきたね」  陽向が言おうとするその瞬間がわかるように、彼はそう言って微笑む。今日もまた。 「少しずつ歩く練習もしないと。なまってしまうと帰れなくなるから。この辺りは里のはずれだし、人目もない。明日くらいから少しずつ外を歩いてみよう」  帰るのが当たり前。ここに止まることはできない。  今だってきっと自分のような者をここに匿い続けていることがわかってしまったら、彼の立場は里で悪くなる。  だからこそ早く傷を治し、ここを去るべきなのだ。わかっている。でも。  強い力で彼の肩を包み陽向は呻く。 「明日の話なんてしたくない」  言いざま彼の白い首筋に唇を押し当てた。ふっと彼が息を飲む。陽向、と呼ぶ彼の声を無視し、唇を滑らせて彼の耳を噛むと彼の呼吸がはっきりと乱れた。未だ添え木があるために動かない右腕がじれったい。肩に回していた左手を彼の胸元に差し入れ、その肌に触れると彼は、吐息交じりに言った。 「怪我、まだよくないんだから」 「怪我なんて治らなくていい」  指先に触れる肌はやはり冷たい。その肌を温めたくてなおも彼の体を引き寄せながら言うと彼はふっと身を引いて陽向の手を払った。 「だめだ。やっと良くなってきたのに。こんなことで無理したら」 「こんなことってなに」  尖った声を投げると彼はふっと口を噤む。その彼の顔を正面から見つめ、陽向は怒鳴った。 「俺にとって今、あんたを抱きしめることはこんなことで片付けられていい軽いものじゃない」  言いつつ顔を背ける。  自分がとてつもなく子供じみたわがままを言っているような気持ちになる。でも止められないのだ。  自分はこれほどに彼と離れたくないと思っているのに、彼は違う。  陽向の腕を求めておきながらも、彼が陽向を思う気持ちは陽向のそれとはきっと違う。  これほどに近くにいるのに彼と自分はとてつもなく遠い。  だからこそ焦る。もっとそばに感じたくてたまらなくなって彼に必要以上に触れてしまう。  彼が困るのがわかっているのに。 「ごめん。だけど俺は離れたくなくて。だから」  ひび割れた声で呟いたとき、するりと細い腕が陽向を包んだ。 「僕はね、君の怪我が早く治ってほしいと思っている」  陽向の頭を抱きしめる彼の声が静かに落ちてきて、陽向は目を閉じる。悔しくて涙が出そうだった。  やっぱり彼は早く自分と離れたいのかもしれない。そんな思いに食い荒らされ、心がささくれていく。  だがそんな陽向の思いとは裏腹に彼は掠れた声で告げた。 「痛そうな顔、見ているのは辛かったから」  そろそろと顔を上げる陽向に、楓は静かな笑みを浮かべてみせる。 「だから、元気になってくれること、嬉しいと思う」  いつもは淡々としていて感情が滲まない声が、柔らかく震えていた。  優しく彼が陽向の頭を抱きしめる。布越しにもわかる冷たい体温を感じながら陽向は熱くなる目頭を彼の肩に押し当てた。  彼の細い手は陽向の後ろ頭をそっと撫で続けてくれていた。

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