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第42話 菖蒲(あやめ)

 あの整備されていなかった通路は隠し通路だったらしい。馬酔木に案内されて上った階段の上に広がっていたのは、小さな広場であり、そのすぐ前にこぢんまりとした小屋が建っていた。  こっちだ、と言うように馬酔木が陽向に合図する。声を出さず手だけで示す理由はすぐにわかった。遠くではあるが、声高になにかを叫びかわす声が聞こえていた。  身を屈める馬酔木に倣って広場を進み、小屋の前にたどり着く。馬酔木が短い間隔で三回扉を叩くとすぐに引き戸が開かれた。 「どうぞ。入って」  せかせかした女性の声が扉の隙間から聞こえる。滑り込むようにして入る馬酔木に続いて建物に入ると、ぴしゃり、と背中で扉が閉じられた。 「おつかれさま。馬酔木。あなたはここで少し待っていて。…………で、あなたが」  そう声を発したのは濃い藍色の衣をまとった妙齢の女性だった。黒髪を後ろできっちりと結んだ彼女は陽向を見上げ、目元を和ませた。 「陽向さん。楓から聞いてます」 「あの、あなたが、榊、さん」  問いかけたとたん、あほ! と馬酔木に怒鳴られた。 「この方は先代の長のお嬢様で、菖蒲さまだ」 「え! じゃあ、あの、楓の」 「一応姉という関係になります。血は繋がっていませんし、形式上ではありますけど」  ゆったりと微笑んでから彼女は陽向に向かって丁寧に会釈した。 「こんなことになってごめんなさい。怪我が治ったら戻ってもらうはずだったんですよね。それを身内のもめごとに巻き込んでしまって」 「いや、もともとは俺のせい、ですから。楓は俺を助けてしまったために立場を悪くしているんですよね」  そうだ。すべて自分のせいだ。ここに自分が来たから彼は今、守ろうとしていた者たちに牙を剝かれている。  だが自分が悪いとわかっていても憤りは募る。彼はあれほどに自身の身を削っているのになぜ、守られる側の人間たちはそれを理解できないのか、と。  もやもやと湧き上がる怒りに拳を握りしめたが、やがてその怒りの矛先は再び自身に向かった。  陽向がここに来なければ、楓とてあんなことをしようとも思わなかったはずなのだから。  自身の命を削る術を、陽向を使って試そうなどということを。  だとしたら、自分は彼にとって疫病神であり、死神でしかない。 「申し訳、ありません」  この人に謝ったところで取り返せるはずなんてない。なにもかもがもう遅いのだ。彼が必死に守ってきた里の平和は破れつつあり、言い伝えが本当ならば彼の身にはすでに彼の命を食い荒らす炎が刻まれている。  陽向によって。 「陽向さん」  柔らかい声が頭の上から響き、陽向は頭を下げたまま体を強張らせた。 「私はあなたを許すという立場にありません。だから頭を下げられても答えられません」  声質だけは柔らかく、しかしきっぱりと突き放す強さを込め彼女が言う。それでも頭を上げられないでいる陽向の耳に彼女がかすかなため息を吐くのが聞こえた。 「私には黒鳥がありません。ですからあなたに触れることもできない。触れたら死ぬかもしれないと思ったら怖くてできません。だからご自分で頭を上げてくださいますか」  その懇願の形を借りた命令に陽向は顔を上げた。彼女をこれ以上困らせたくなかった。楓の姉というこの人を。  顔を上げた陽向の顔を正面から見た彼女は、困ったように目尻を下げて呟いた。 「ごめんなさい。こんな言い方をするつもりはなかったんです。ただ、少し自分が嫌になってしまったものだから」 「どういう、ことですか」  彼女は長い睫毛を伏せ、逡巡したのち、口を開いた。 「楓が先代の長である私の両親に引き取られ現在の長になった原因は、私に黒鳥の兆しがなかったからです。だから黒鳥を持った楓が長をやるしかなかった。私が黒鳥を持ってさえいれば血縁でもない楓は重責を担うこともなかったのに」  悔しげに言い、彼女はふいっと目を上げ陽向を見据えた。 「そうであれば、楓が悪鬼であるあなたと通じることもまたなかったはずなのに」  じっとりとした粘り気のある眼差しだった。返す言葉もなく立ち尽くした陽向の前で、彼女は端然と一礼をすると、こちらです、と陽向の前に立って歩き始めた。  背筋を伸ばして歩く彼女の後姿を見つめながら陽向は必死に拳を握りしめていた。  後悔が胸を塞いでいた。目の前のこの人が楓のことを案じていることがひしひしと感じられたために。  彼に一切見られなかった家族の影。けれど彼もまた彼一人で立っているわけではない。両親亡きあと、彼を育てたという先代の長夫婦。そしてその娘であったというこの人もまた、これまでの楓を見守ってきた人であるのだ。  その楓を陽向は穢した。彼の体に呪いを刻んだ。  憎まれて当然なのだ。

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