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第43話 榊(さかき)

 階段を下り、菖蒲は歩き続ける。表に見えていた建物は小さいが、下った先、伸びる廊下は長い。ところどころにかけられたランプの明かりに照らされどこまでも続いていた廊下だったが、やがて果てが見えた。そこだけ色の違う石戸が目の前にそそり立っていた。 「榊さま」  扉の前で菖蒲が声をかける。すると扉の奥から、入りなさい、としゃがれた声がした。 「どうぞ。お入りください。ただし決して榊さまには触れないでください。よろしいですね」  菖蒲が半身だけこちらに体を向け、潜めた声で陽向に告げた。  悪鬼たる自分に触れさせるわけにはいかないという彼女の覚悟の滲んだ顔に陽向はゆっくりと頷く。菖蒲は扉を開くと、先に立って扉を押さえる。中に入って陽向は気づいた。  香りがしていた。あの夜毎草の香りだった。 「菖蒲、あとはいいからあなたは表に戻りなさい」  先ほどの声が命じると、菖蒲は静かに一礼し、身を翻した。からり、と扉が閉じたところで陽向は室内に向き直った。  広い部屋だったがその広さのわりに明かりは極端に少ない。薄暗がりに沈む部屋の中、部屋の中央にある机の向こう、揺り椅子に座った人影があった。  それは服装や姿勢から老女と思われる人だった。だが、その顔に陽向は言葉をなくした。  彼女の顔は白い仮面で覆われていた。目と鼻と口に穴が開いているだけの簡素なその仮面は、表情などないはずなのにランプの明かりに照らされ不気味に笑っているように見えた。 「驚かせてごめんなさい。ただこれをしておかないとあなたがもっと驚いてしまうから」  そう言って彼女は手を上げて仮面を撫でた。だがその仕草にも陽向は反応することができないでいた。仮面に伸ばした手が包帯に覆われており、その包帯の隙間から赤黒い肌が覗いているのが見えてしまったために。 「気持ち悪いでしょう。本当にごめんなさいね」  しゃがれ声ながらもどこか楽しそうに彼女はそう言い、身振りで陽向に机を挟んだ向かいの椅子に座るよう促した。 「楓からはあなたを匿ってほしいと言われています。あなたが殺されてしまうと大変なことになるから、と。確かにもしも我らが手にかけたなんてことが悪鬼の里に知られたなら、怒り狂ったあなたの里の人たちにあっと言う間に私たちは滅ぼされてしまうでしょうからね。あなたたちと違い、私たちは力を失いつつある種族です。戦ったとしても勝ち目なんてないのだから」 「俺たちはあなたたちを攻めるつもりなんて……」  ない、と言いかけて陽向は口を噤んだ。楓の言葉を思い出したからだった。  虎視眈々と悪鬼の里が自分たちの里を探し続けているのを自分たちが知らないとでも思っているのか、と吐き捨てた彼の声を。  そうだ。自分達一族は地下に自分たちを押し込めた闇人を憎んでいる。何百年も経っていてもなお。闇人側が炎からの復讐を恐れる心があったとしてなんの不思議があるだろう。  地下投獄がなかったら。  そこまで思考を巡らせ、陽向は拳を膝の上で握りしめる。  彼らにとって陽向たち炎の一族は忌むべき存在でしかないのだ。きっかけは力なき人間を殺す鬼として危険だったからというのもそうだろう。だが、彼らの心の奧にはずっとあったはずだ。自分たちの命を削る術を持つ陽向たち一族への嫌悪が。  誰からも望まれない一族。  自分たちに生きている意味なんて、あるのか……。 「なぜ俺たちは生きているのでしょうね」  誰に問うでもなく零れ落ちた陽向の疑問を、仮面の老女はどう受け取ったのか。返ってきた言葉は陽向の呟きには微塵も触れないものだった。 「とりあえず、しばらくはここにいらしてくださいな。いずれ潮目も変わるはず。ここなら大丈夫。皆、私の毒に怯えている者ばかりですからここには近づかないでしょう。ああ、あなたも私には触れない方がいいですよ。この毒は地上のもの。触れるとあなたの体も溶け崩れかねませんからね」  内容とは裏腹にあっけらかんと言われ、陽向は返事に困って黙り込む。その陽向の前でくつくつと笑いつつ彼女は言った。 「それにしても面白いものね。私たちはお互い忌み嫌っていたはずなのにこうなってしまうと同じようなものだもの。あなたは触れたものを殺す。そして私もこの毒で殺す。もっとも私の毒は私自身もじりじりと死へと近づけていくものだけれど」 「毒、なんですか」  低い声で尋ねると、彼女、榊は厳かにと頷いた。 「これが黒鳥を持つ者の末路。取り込み過ぎた毒に逆に取り込まれ死んでいく。仕方ないことです。私は黒鳥の力を六十年近く使い続けてきましたからね。こうなることは覚悟していました。力を得た者は皆、そうでしょうね」 「どうして、そんなになってまでやらなければいけないんですか。やめればいい。そうすれば普通に生きていけるのに」  思わず食ってかかると彼女は口を閉ざす。しまった、と思ったが陽向は止められなかった。

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