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第44話 力があるから

「地上の毒のことなんて、地上人に任せればいい。だってそもそもはあいつらがやってしまったことなんでしょう? なのになぜ、あなたたちが尻ぬぐいしなければならないんですか? そんな風になってまで! 俺は納得できない!」  室内に声が反響する。憤る陽向の前で榊は沈黙を続けている。さらに口を開こうと陽向が息を吸ったその隙間を縫うように、ふふふ、と笑い声が響いた。 「本当にそうよね。だって私たちはなにも関係ない。私たちの現在は、先祖がなしたことの結果によって作られている。地上をああしてしまったのは只人の祖先。本来なら黒鳥の私たちにそれを拭う責任はないはず。なのに私たちはずっとずっと地上の毒を拭い続けています。力がある限りずっと。それはどうしてだと思いますか?」 「どうして、ですか」  尋ねた陽向の前で、榊は背もたれにゆったりと体重を預ける。 「力があるからです。それができるのが自分たちだけだから。そしてそれを望む人がいるから。だからやるんです。それ以上の意味はない」 「そんなのおかしいでしょう! そのせいで自分が壊れていくなんて絶対におかしい!」  過ったのは楓の顔だ。黒い瞳を揺らめかせ笑う、彼の顔だ。 …………力が受け継がれていることには意味があるから。事実、僕らの力があれば、時間をかけて地上を少しずつ清浄に戻せる。それを望む人も、いる。  力があるから、そんな理由で彼はあんな顔をし続けなければならないのか?  あまりにも理不尽過ぎると思う自分はおかしいのだろうか。  怒りに燃えた目で彼女を睨む陽向に彼女は気圧されたようにしばらく沈黙してから、そうね、と声を漏らした。 「それも一つの考え方よね。でも、だとしたら誰がやるの? 地上は死の土地のまま永遠に放置され続けるの? もしそうなら私たちの力はなんのためにあるのでしょう?」  矢継ぎ早に問われ陽向はたじろぐ。榊は穿たれた仮面の目の奧から陽向を見据えてからため息を漏らした。 「でもね、私たちも人間なのよね」  疲れたような声で言い、榊は背もたれに預けた頭を上向けた。 「力に捕らわれず生きたいと思うことも、毒に侵され壊れていくことを恐れる気持ちも、あって当たり前なの。だって私もそうだもの。私はかろうじて生きている。けれどそれは今、力を使うことを止めているため。もしも再び力を使おうとすれば許容量を一気に超え、私の身の内にたまったこの毒たちは私を一瞬で殺すでしょうね。それが私はとても恐ろしい。それこそ発狂し、自分がなくなっていくほどにね。だから、私は楓の選択を責めることなんてできない」  その言葉に陽向ははっとした。そんな陽向を榊は仮面越しに静かに見つめている。 「禁忌を侵した、申し訳ない、と楓は私に頭を下げました。命の限り黒鳥の力を使うこと。それを定められている私たちは、決して侵してはならないとして二つの戒めを己に科しています。 一つは自ら命を絶つこと。もう一つは、悪鬼と通じて自身の命を削ること。長でありながら、楓は禁を侵した。あの子がそんなことをするなんて、と驚きましたよ。でも私には、毒に殺されていこうとしている今の私にはあの子の気持ちがわかってしまう」  揺れるランプの明かりの火影の中、榊の手がぎゅっと机の上で握られた。 「あの子は私に言いました。禁忌だとわかっていてもどうしても止められなかった。生きたいと願ってしまったから、と」 「生きたいって……でも」  悪鬼と一度でも交われば命が削られる、と聞いた。だとしたら彼の行為はまったく真逆のことではないのか。  混乱した陽向に、榊はゆっくりと頷いてからふいに陽向に問いを投げかけた。 「生きるってあなたはどんなことだと思います?」 「それは……こうしてここにいること、ではないでしょうか。食べて眠って……そうした活動ができること、かと」 「そうね。それも生きるよね。息をしていることだけだって生きること。でも私はこうなってよく思います。私は生きてなどいなかった、と」  机の上で握っていた拳をゆるゆると開き、自身の掌に榊はそっと目を落とした。 「黒鳥として、役目と信じて力をふるい続けてきた。けれど私の心はずっと死んでいた。なにかを感じてしまったら恐怖に飲まれて動けなくなりそうだったから。なにも感じないでいられるようにずっとずっと。でもそれは本当に生きているとは言えないものだった。なにかを願い、なにかを望み、なにかを心から愛する心すら封じた私は」  榊の小さな体がわずかに震える。彼女は震えを押さえようと腕で自身を抱きしめながら顔を俯けた。 「でも、あの子は私とは違う。あの子は生きられる道を見つけたのでしょう。体が死していこうとも心に炎を灯して生きる、その道を。そしてその道を示してくれたのは、陽向さん、あなただった」  榊がゆらりと顔を上げる。ふうっと大きく息をついてから彼女は声の調子を整えながら言った。 「私はもう力を使えない。柏は……まだ大丈夫でしょうが、使いたがらないでしょう。あの子は自尊心は強いですが心は弱い子です。黒鳥の責務に耐えられるはずがない。だから黒鳥を背負い、その責務を果たす最後の一人は楓となるのでしょう。けれど私は……禁忌を侵したあの子を見て、思ってしまったのです。もういいのではないか、と。このまま私たち、黒鳥は消えていいのではないか、と。だから、お願いです。陽向さん」  ゆっくりと彼女の頭が下げられ、陽向は瞠目した。深く深く頭を垂れたまま、彼女は陽向に向かって乞うた。 「あの子をここから解き放ってやってくれませんか」  とっさに言葉を返せず固まる陽向の前で榊の姿勢は変わらない。陽向は押し殺した声で言った。 「いいんですか、そうなれば俺はもう楓に役目なんて果たさせない。俺は、楓にもう絶対に力を使わせたくないですから。そうなってもいいと仰るんですか」  榊はやはり頭を下げたまましばらく動かなかったが、突如小さく肩が震えた。ゆっくりと顔が上がる。 「あなたは本当になにもかもが私たちとは違う。悪鬼とは皆、あなたのような人たちなのですか?」  面白そうに言ってから彼女は、困ったように肩をすくめた。 「こういう言い方はいけないのよね。きっと。楓が希望を見つけられたのは多分、悪鬼だから、ではなく、あなただから、なんでしょうから」 …………個は個でしかない。一族がどうであれ君は君だ。  そう言ったのは楓だ。けれど。 「俺、楓は天涯孤独で支えてくれる人も楓を理解してくれる人も誰もいないんじゃないかと思ってたんです」  ぼそりと言うと、榊が怪訝そうに首を傾げる。その彼女に陽向は笑いかけた。 「でもあなたはとても楓と似ている。楓がああも広い視野を持っていられるのはあなたのような人がいてくれたから、なんですね」  榊は無言だ。が、ややあってふるり、とかぶりが振られた。 「いいえ。私は楓に黒鳥のなんたるかを押しつけ続けてきた側です。私には覚悟がなかった。あの子のようになにかを選ぶこともできなかった。私はあの子がただ羨ましいんですよ」  そう言ってから、榊は静かに立ち上がり、天井から伸びた紐を引いた。  がらがら、と重いなにかが動く音が室内に響く。音に引かれて見回すと、部屋の最奥の壁がぽっかりと開き、通路らしきものが続いているのが窺えた。  その通路に向かって、彼女はゆっくりと歩を進める。あの、と呼びかけた陽向を彼女は振り返った。 「この道をたどると村の中心地にある集会所の地下に出ます。おそらく楓もそこにいるはず。只人の長たちと話し合いをするという話でしたから。ですが……そんなところに悪鬼であるあなたを一人送り込むことはできませんよ。私も参ります」 「でも、お身体が……」  歩くのも困難そうだ。不安を覚えそう言うと、彼女は、ふふふ、と楽しそうに笑った。 「ご心配なく。腐っても元長です。私にもまだやれることがあったのかと思うと今、少し嬉しいくらいですよ」  言いつつ、彼女は室内に灯されていたランプを取り上げ、陽向を促した。 「参りましょうか」

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