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第45話 執務室

 苔むした通路は長く使われていなかったのか、随分荒れていた。そのため、榊は何度も足を取られ転倒しそうになったが、陽向が手を差し出そうとするたび、陽向を叱責した。 「触るなと申し上げたはず。あなたが思う以上にこの毒は強いのです。決して触れてはいけません」  厳しい声に頷くことしかできない自分が歯がゆい。だが一方で強く思ってもいた。  この人の姿は、楓の未来になり得るかもしれないものだと。  だとしたら絶対にそれは阻止しなければならない。どんなことがあっても。  どれくらい進んだだろう。前方にほのかな明かりが見えてきたと同時に、通路が上り坂になる。ランプを掲げ坂を進んだ榊は、登り切ったところにある扉を引き開けた。周囲を注意深く見回し、陽向を手招く。  そこは地下の通路よりは整備された建物だった。地面も凹凸がなくならされているし、光石を利用して作られているのかかがり火がなくともほの明るい。  その通路を榊は注意深く進み、一つの扉の前で立ち止まると、からり、と扉を引き開けた。  とても簡素な部屋で、書籍が押し込められた棚と石造りの机と椅子だけがひっそりと置かれている。 「あなたはここにいらしてください。決して出てはなりませんよ。私が楓を連れてまいりますから。三回扉を叩く、それが合図です。もし合図なく誰かが入って来そうになったら、その奥の扉。そこは外に通じています。そこから外へお逃げなさい。よろしいですね」  そう言い残し、榊は陽向に手にしたランプを握らせると扉の外に出た。からからと慎重に扉を閉める音が閉ざされた室内にひっそりと響いた。  ぼんやりと光る部屋の中、陽向はそうっとランプを机の上に置き、短いため息を落としながら思う。  会いたいと思う、自分のこの気持ちは果たして、彼にとって望むものなのかと。  今から自分がやろうとしていることは、彼の思いとは相容れないものかもしれないと。  でも迷う心を揺るがすのはあのときの彼の声だ。ありがとう、と囁いた、震えを噛み殺したあの声だ。  間違っているのかもしれない。いや、きっと間違っているのだろう。でもそれでもやっぱり自分は。  と、そこで唐突に扉が軋んだ。ノックの音もなにもなく開いていく扉に陽向は息を潜める。黒い衣をまとった人影が扉の向こうに現れるのを見て、陽向はとっさに後ずさった。  迂闊に触ってしまったら殺してしまう。そんなことになっては絶対いけない。榊に示された出口に目をやりながらじりじりと後退する。  が、光石の柔らかい光の中に浮かび上がった人影が誰であるかを認め、陽向は動きを止めた。   それは、陽向の知っている、いいや、会いたくてたまらない人だった。  思わず扉に向かって駆け寄ると、扉を開けて中に入ろうとしていた彼が瞠目した。  楓だった。  しかし陽向の顔を認めた楓の顔は笑顔になることはなく、さっと青ざめた。 「なんで……」  そう言う楓の背中の方からはなにかを言い争う人声が聞こえてくる。慌てた顔をしながら楓はこちらに体を滑り込ませ、ぴしゃり、と背中で扉を閉めた。 「どういうこと? なんで君がここに……」 「榊、さんは?」  楓を遮ると彼は閉じた扉の向こうを振り向きながら答えた。 「他の里の長と話し合いをしているところに来られて。禁忌を侵したのなら楓は長として失格だからひとまずこれからは自分が長を代行すると。どうするか処分を決める話し合いをするから、終わるまでお前は執務室に下がっていろ、と……」  状況についていけない顔をしつつもそこまで話してくれてから、楓は信じられないものを見たかのように陽向の顔を凝視した。 「でも、どうして……」  問いかけるその声。焦りながらも涼しげに澄んだ彼の声を耳に収めたとたん、たまらなくなった。

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