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第63話 あなたが生きていてくれて良かった

「よかった?」 「ええ。よかったです。力を持ち、長として立っていたのが氷見楓さんで本当によかった」 「なにが?」  菖蒲の目に激しい憤怒の色が浮かぶ。彼女は格子すれすれまで歩み寄り、白い指で格子を握りしめた。 「楓のせいで黒鳥の力は失われました。里は滅び、私たちは辱めを受けている。あなた方にとってはそれはよかったことなのでしょうが、私たちにはよいことなどなに一つありません。なにがよかったとおっしゃるのですか?」 「よかったですよ。だってあなたも奥の彼女も、そして里の皆さんも生きている」  ふっと菖蒲の目が大きく見開かれる。その彼女に向かって如月は穏やかに続けた。 「確かに犠牲は多く出ました。しかし生きられた人もいる。それは氷見さんが長だったからではありませんか? あなたではなく」  菖蒲の顔がはっきりと引きつる。如月はのんびりと、しかし、くっきりと聞こえる声で彼女に話しかけ続けた。 「私はあなたという人も氷見楓さんという人も知りません。だから起きたことからしか判断はできません。事実として氷見さんは多くの人間を殺めました。そしてまた事実として、多くの人間を救おうともしました。あなたの言う力を彼がどう思っていたかは知りません。けれど少なくとも彼はその力と向き合おうとはしていたのだろうな、と私には思えてならない。そして、あなたご自身はといえば、おそらくは昔も今もずっと無力さを嘆いておられる。あなたにしかできないこともきっとあるのに、それに気づかずないものを願っている。力がないことはそれほどに不幸でしょうか? 誰かを殺めかねない力を持つ者の気持ちがあなたには本当にわかるのですか?」  言うほどに熱を帯びる彼の声に陽向は唖然として如月を見つめた。彼が言う、人を殺めてしまう力。それが闇人の力を指して言ったものではないと陽向には思えてならなかった。  この人も自分達の力を憎んでいたことを陽向は初めて知った。  菖蒲は蒼白な顔で如月を見つめていたが、しばらくしてじりじりと後ずさった。そうして如月と距離ができたところで彼女は静かに頭を下げた。 「申し訳ありません」  黒髪がさらり、と肩から滑り、彼女の顔を隠した。 「思慮に欠けたことを申し上げました。ご不快にしてしまい申し訳ありません」 「不快ということではありません。仕方ないことなので。ただ僕は悲しいと思ってしまったのです。あなたは本当はとても優しい方のようなのに、憎もう憎もうとされているように見えて」  如月の言葉に下げたままの彼女の頭部がふと揺れた。ゆっくりと顔を上げた彼女に如月は笑いかけた。 「あなたは陽向くんがあの方を殺してしまうかもしれないと心配されて、ここであの方の世話を買って出てくださいましたね。でもそれはあの方を守りたいという気持ちだけではないように僕はお見受けしました。弟さんのため、ですよね」  狼狽した彼女に如月は微笑みながら言った。 「弟さんが陽向くんをとても大切にされていると感じたから、陽向くんの手を復讐で汚してはならないと思ったのではないですか」  菖蒲は黙りこくる。薄い唇を引き結び沈黙していた彼女は、ややあってふっと肩から力を抜いた。 「ええ、そうです。里が落ちたあの日、楓は陽向さんにすがって泣いていました。あれほどに泣くあの子を私はこれまで一度として見たことがなかった。なにがあろうと髪の毛一筋ほどの乱れもない表情を浮かべ続けていたあの子が、あのときは泣いていたのです。ごめん、ごめん、死なないでと。あのとき思い知りました。あの子にとって陽向さんがどんな存在なのか」  だから、と言って菖蒲は陽向の目をまっすぐに見据えた。 「そうまでしてあの子が思う陽向さんを、私は人殺しにはできないと思いました。決してしてはならないと」  この人は楓と血の繋がりがないと聞いた。だがこの人のこの優しさは彼にとても似ている。  どうしようもなく似ている。  右目が熱い。こらえきれず涙を片手で押さえる陽向の耳に、柔らかい声で菖蒲が言うのが聞こえた。 「本当に、あなたが生きていてくれてよかった」  陽向はすでに人殺しだ。幼き日、自分は一人の少女を自身の力で殺した。  だから人殺しにしたくない、なんてそんな労りは見当違いもいいところだ。そう、余計なことでしかないのだ。  でも陽向は柏を殺せなかった。殺そうと拳を振り上げたのに振り下ろせなくなってしまった。  これが自分に残った唯一彼にしてやれることだったのに。しかも菖蒲は陽向に呪いをかけた。  生きていてくれてよかった、と彼女はそう言った。  彼と似てなんていないはずの彼女がそう言って笑った瞬間、自分はなにも言えなくなった。  生きていてくれてよかった、そう笑った彼女が陽向には楓に見えた。  光の宮の館を辞した陽向は楓の墓の前にへたりこむ。  今日も馬酔木が来たのだろうか。墓前には青い花が供えられており、優しい香りが辺りを覆っていた。 「楓」  自分はどうしたらいいのだろう。  なにもほしいものなんてないのに。あなた以外いらないと思っているのに。  それでもあなたの面影は俺に生きろと言う。  残酷に言い続ける。生きたくなんてないのに。  陽向は墓石に頬を押し当て泣き出した。冷たいそれはまるで彼の皮膚のように陽向を包み続けた。

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