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第64話 あなたのいない世界

「鈴生の辺りの地質がおかしいらしい」  顔をしかめながら如月が手元の黒板を睨んで言った。 「おかしいって? もしかして崩れ始めている、とかですか?」  如月の向かいで報告書に目を通していた陽向が顔を上げると、如月は仏頂面で、いや、と言った。 「あの辺り白糸苔が群生している場所だったんだけどね、その苔がなくなっているらしいんだ。蒸発するみたいに。さらに気になるのは、鈴生の里の住民の間で、皮膚病が流行っているって話なんだよね」 「皮膚病……」  顔を曇らせる陽向の前で、如月は思い悩むように眉間を揉んでいたが、しばらくして顔を上げると、陽向に向かって言った。 「陽向くん、明日、鈴生に行ってみてくれるかな。少し遠いけれど。あ、いやでも、やっぱり陽向くんの足だと厳しいかな」  如月が唸る。その彼に向かって陽向は首を振ってみせた。 「大丈夫です」  心配そうな顔をする如月に陽向はちらっと下穿の裾をめくって左足を示した。 「義足、新しいのになってすごく調子いいですし。あれくらいの距離ならなんの問題もありません」 「そう、か。ただ地上人にも話を聞いてもらわないといけないから、かなり注意も必要だけど」  言われてわずかに躊躇う。やっぱり僕が、と如月が陽向の顔色を見て言いかけ、陽向は慌てて笑顔を作った。 「それも大丈夫です。話を聞く地上人は最低限、しかも里の外で距離を保って聞き取りをできるよう配慮すればいいですよね」  陽向の答えに如月はまだ心配そうながらほっとした顔をした。  如月はこの町の最高位者、光の宮の右腕と言われている。光の宮の補佐をしているとは聞いていたが、近所に住んでいる本好きの気の良いおじさんとしか思っていなかった如月が、実はとてつもなく偉い人だったことを、彼の近くで仕事をするようになって陽向は初めて知った。  本当に自分はあまりにも無知だ。あのころも今も。 「今日も行くのかい」  仕事が終わり、自分の事務机を整理している陽向に如月がさりげなさを装った声で言った。  陽向は動かしていた手を一瞬止める。が、再び何事もなかったように片づけを再開すると、荷物を持って立ち上がり笑った。 「おつかれさまでした」  闇人の里が落ちて二年経った。  陽向はこれまで警護の任を担っていたが、左足と左目を失いその任を解かれた。肉体労働が主流のこの町でどう生きていくか、思い悩んでいた陽向を拾ってくれたのは如月だった。  陽向は今、如月の下で各種情報収集を行う仕事を任されている。集める情報の種類は多種多様で、町内で使用する地下水の状態確認から、周辺の村落における政治的動向、野生生物の生態活動の観察、さらには町内におけるいさかいの原因解明までありとあらゆる情報を扱っていた。  この仕事に携わるようになって陽向は、これまでの自分がいかに漫然と生きていたのか思い知らされた。危険と隣り合わせに暮らすこの地底で、如月のように周囲に目を配る人間がいてくれてこそ、町の安全は保たれていたのだ。 「楓もそうだったのかな」  町はずれ、黒い墓石に手を触れながら陽向は話しかける。  今日も閉じた冷たさを放つ墓石が陽向の手の温度を冷ましていく。 「あんたも里のため、里のためって言ってたもんな」  少し笑って陽向は持参していた布で墓石をそっと拭く。 「如月さん見てると楓を思い出してしかたないよ」  今日も墓前には夜毎草が供えられている。毎日欠かさずにそこにある花は淡い青い光を放っている。柔らかいその光に自身の赤い瞳を浸し、陽向は思う。ちゃんと聞いたことはなかったけれど、楓はこの花が好きだったのだろうな、と。  香りの中、楓が笑う面影が目の前に立ち上がってきて陽向は顔を伏せた。  二年経った。でも今もまだ自分は彼を忘れていない。その顔も、声も、香りも、抱きしめた華奢な体から伝わるほのかな体温も。  なにもかもを。  彼のいない世界で自分は本当になにをしているのだろう。そう思うのに、自分はまだ息をしている。苦しくて苦しくて。伸ばしてもその手を取ってくれる彼がいないこの世界で。  でも、自分は自分を終わらせられない。  彼が繋いでくれた命を自分から捨てられない。苦しいのに辛いのに。これほどに寂しいのに。 「俺もいい加減しょうもないよな」  笑って言おうとしたけれど声が震えてしまった。顔を乱暴に拭い、陽向は墓石を再び磨き始めた。

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