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第68話 さよなら
問いに楓の目がふうっと目を見張られる。彼は問いには答えず、細い指を上げて自身の頬を拭いながら言った。
「少し、痩せて見える。ちゃんと食べていた?」
尋ねる声は優しい。二人寄り添っていたあのときとなにも変わらない。なにもなにも。
「食べられるかよ。食べられるわけ、ないだろ」
あんたがいないのに。
ああ、また声が震えてしまった。涙を流し続ける右目を擦る陽向に楓は痛ましいものを見るような眼差しを向けてから、陽向の左目を覆う眼帯をそうっと撫でた。
「ごめん」
陽向は左目に触れる彼の手を左手で掴みその手に口づけた。慈しむように陽向が握りしめた彼の手を自身の頬に当てると楓がかすかな声で言った。
「僕は、死人だよ」
ふっと目を上げた陽向の手からするり、と彼は手を取り返す。その手で彼は外套の胸元をきゅっと握りしめた。
「君とは一緒にいられない」
「いやだ」
言いながら陽向は楓の体を引き寄せる。閉じ込めて離すまいときつくきつく抱いたその腕の中で、楓が囁いた。
「君は、ここになにしに来たの?」
「俺は、この辺りの苔が消えたって報告があったからそれを確認に……ってそんなのはどうでもいいだろ、それより」
「ちゃんと仕事してちゃんと大人になってるんだね」
満足げにそう言う彼の声に陽向は思わず口を噤む。その陽向の胸が軽く押された。隙間を得た彼によって陽向の首にするりと腕が回される。
「もうすぐ、地下にも毒が来る。苔が消えたのはそのせい」
さらりとした声だった。なにを言われたのか聞き返したくなるくらい、その声は静かだった。しばらく黙って彼の言葉を噛みしめてから、陽向は戦慄を覚え問い返した。
「毒って……それ」
「地上の毒が染み込んできている。この地底湖は海と繋がっている。流れ込んでこないように僕ら一族は昔からこの辺りは気をつけていたけれど、最近特によくない。でも、それを止めるために僕がいる」
「待てよ! ちょっと待て! なんで楓がまだそんな……」
「おそらくあと一か月くらいは大丈夫かな。でも、その後のことは保証できない。だからこの辺りが瘴気に沈む前に、近場の村落の人々を避難させて」
「いやいや! 待てって!」
「頼んだからね」
すうっと首から腕が解かれる。体が離されるその間際、陽向の耳に静かな声が落ちた。
「会えて、嬉しかった。さよなら、陽向」
さよなら。
「なんで、さよならなんて言うんだよ!」
叫んだときには遅かった。伸ばした陽向の指先をすり抜け、彼は闇へと紛れて消えた。ランプをかざし、辺りをくまなく照らしたけれど、黒い外套を羽織った彼の姿はもうどこにも見当たらなかった。しばらく周辺を走り回ったが、結果は同じだった。
へなへなと地面にへたりこみながら、陽向はのろのろと腕を上げ、唇をそっとなぞる。
残るのは彼の感触。冷たくて、優しい。
あれは、確かに彼だった。
間違いなく、楓だった。自分を死人だと語った彼。けれどあれは違う。あれは、生きた人の感触だ。確かに体温は低かった。けれど陽向の手を濡らした涙。あの温かさ。あれは……死人のそれじゃない。
そして彼は、苔が消えたのは毒のせい、と教えてくれた。あれは毒を消せる彼だからこそ言えること。あれは間違いなく楓で、生きている楓だからこそ毒は、消せる。
しかし楓は死んだはずだ。
この謎を解く方法を陽向は一つしか思いつかなかった。
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