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第77話 僕ではない誰かと

 納得しなければいけないのだ。自分は彼になにもしてやれない。彼の命を削ることしか自分はできなかったのだから。けれど彼の選んだ道ならば、彼は生きていられる。  それは陽向にとっても素晴らしいことではないだろうか。もう顔を見ることはできない。声を聞くこともできない。でも確かに彼は生きて存在していてくれる。  それはこの上ない幸いなのではないのか。  彼が死んだと聞いたあのときの絶望感に比べればずっとずっと。  そう自分に言い聞かせながら迎えた儀式の前日、楓はいつもとまったく変わらない穏やかな表情で陽向を迎えた。  ただ静かに微笑み、いつも通り、とりとめのない会話を続ける彼の前で陽向は泣きたいのを必死でこらえ、笑顔を作り続けていた。  今ここで自分が泣くわけにいかないと感じたからだった。 「陽向はさ、どんな人と家庭を作るんだろうね」  だから、そう言われたとき、陽向はまだ笑顔だった。必死に貼り付けていた笑顔がすぐには剥がれなかったために。 「…………は?」  やっとのことでそう声を発した陽向から視線を外し、楓は如月から借りたという本に目を落としながら囁いた。 「作ってほしいなと思って。家庭」 「…………なに言ってんの?」  零れた声が我ながら驚くほど怒りに濡れていて陽向は自分で自分に狼狽する。けれど楓はそんな陽向の様子に気づかぬふりをして言葉を続けた。 「六十年は生きるって、そう時見さまも言ってくれていたから。それだけあれば子供も作れる。孫も。たくさんの家族に包まれた幸せな人生が送れるから」 「あんた、本当になにを言ってんの?」  言葉だけでは足りなくて陽向は思わず隣にいる彼の腕を力の限り握りしめていた。痛かったのか顔をゆがめられたが、陽向は離さなかった。 「俺はあんたを愛してるんだよ? その俺になんであんたはそんなことを言うんだよ」 「僕は、傍にいてあげられないから」  そう呟いて彼はすうっと陽向を流し見た。 「だから君には僕ではない誰かと幸せを見つけてほしいって思う」 「意味がわからない。それを言われてはいそうですか、と俺が言うと思うわけ?」 「思わない。けれど……これもまた僕の願いなんだってどうしても言いたくて」 「願い? 願いだからってなんで」  そこまで言って陽向は辛抱に辛抱を重ねていた涙腺が決壊するのを感じた。 「なんでそんなこと言うんだよ」  呻いて顔を伏せた陽向の髪をそうっと彼が撫ぜる。優しいその仕草に涙がますます止まらなくなる。 「僕が冷たい人間だから」  ささやかな声で彼は言った。 「僕は自分の勝手で鳥籠に入る。僕の時間は止まる。でも……君の時間は進むから。その間、君がずっと僕に捕らわれているのかと思ったら苦しくてたまらなくなった」  だから、陽向、と優しい声が呼びかけた。彼の腕が陽向の頭をそうっと抱え込む。力を掛け過ぎない彼だからこそのやり方で。 「僕のために、幸せになって。僕が幸せな夢の中に永遠にいるために、幸せでいて」  いやだ、と言いかけた。けれど陽向はぎりぎりでその言葉を飲み込んだ。  彼がこの願いを口にしたのはすべて陽向のせいだからだ。陽向が本心から彼が選んだ幸せを後押しできないのを彼は見抜いているからだ。  だが、陽向のわがままを通し、彼を鳥籠に乗せなかったとき訪れるのは、この地底の崩壊と、彼の死だ。  死んでほしくない。けれど行ってほしくない。でも自分にはなにもできない。  無力感に苛まれながら陽向は楓の胸に顔を押しつけた。 「本当に、楓は幸せ、なんだよな」  確かめるように言った陽向の頭を包む腕に、力が込められた。 「うん」  穏やかな声がそっと返る。優しさの中に強さの滲むその響きを耳に収め、陽向は苦しさを紛らわせるようにぎゅっと彼の背中に腕を回した。  明日には失う彼の体を抱きしめた。

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