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第79話 嘘つき
楓、と思わず呼んでしまったけれど、彼は振り向かず、まっすぐに歩いていく。
今日の彼は和装だった。黒鳥の里にいたときを思わせる黒い袷の着物に黒い帯、その上に同色の羽織を羽織った彼は、背筋を伸ばし時見と共に橋を進んでいく。
静寂の中、光の宮が唱える祝詞が湖畔を巡り、空気を厳かな色へと変えていった。
橋を渡り切り、鳥籠の入り口を臨む場所で、時見が楓に手を差し伸べる。促され、楓の細い手がゆっくりと持ち上げられた。
その姿を目に焼きつけようと残った右目に力を込めた陽向は、そこで息を飲んだ。
彼の指先が、震えていた。
「楓!」
祝詞を遮る大声で呼ぶと彼の体が大きく揺れるのがわかった。ふうっとこちらを見返った彼の顔を目にした瞬間、陽向は走り出していた。
わかってしまったから。
彼が嘘をついていることが。
「陽向くん!」
隣に佇んでいた如月が焦って制止しようとする。だがその手を払い、陽向は走った。突然の事態に反応が遅れた光の宮と警護の人間を振り切り、陽向は橋に足を乗せると全力で駆けた。
激しく揺れる橋にお構いなく走ったが、もう少しで渡り切る、というところでつんのめった。転びそうになったその陽向を慌てた顔で、楓が抱きとめる。
「陽向、なに……」
困惑したように彼が声を漏らす。その彼の肩にすがって身を起こしながら陽向は彼を叱り飛ばした。
「なにじゃねえよ! この嘘つき!」
黒い瞳が見開かれていく。その彼の両腕を掴んで揺さぶり、陽向は怒鳴った。
「なにが幸せだ! 全然、幸せなんて思ってないだろ! 怖くて怖くて仕方ないくせに! なんであんたはそんななんだよ!」
「そ、んなことはない。僕は本当に」
必死に言い返そうとした彼の手を陽向はむんずと掴んだ。
「だったら、なんでこんなに震えてるんだよ! 言ってみろよ!」
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