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5-1 混乱の日、腰を落ち着けて
その日の夜、恭隆が帰ってきたのは予定よりも遅く、すでに夜9時を回る頃合いだった。恭隆はいつものはつらつとした表情とは打って変わり、随分とやつれた表情を浮かべていた。散歩から戻り恭隆の帰りを待っていたユーヤは、ふらつく恭隆の足取りを心配そうに見つめるしかできなかった。
「お、おかえりなさい……」
ようやく言えたねぎらいの言葉は恭隆には聞こえたようで、短く返事を返されるだけだった。
(しごと、って……こんなに大変なんだな)
今日見聞きしたいろいろなことを伝えたい、話したいというユーヤの思いとは裏腹に、恭隆の反応は鈍い。声を絞り出すように、ユーヤは続けた。
「おふろ、沸かしてあります」
「……ありがとう。先、行ってくる」
恭隆は恐ろしいほど低い声で返事こそするものの、ユーヤの方に視線を向けようとしてこなかった。ぽいと投げ捨てられた上着を、ユーヤは拾い上げ、今日の洗濯物のようにハンガーにかけた。しわが目立つ上着はそれだけ動き回った証拠なのだろう。
途端、風呂場からばたばたと走る足音がする。洗濯や掃除で何か間違ったことをしたのだろうかと顔を歪めるが、恭隆は開口一番「ごめん!」と大声で告げた。
「え……?」
怒られると身構えていたユーヤは、拍子の抜けたような声を漏らしてしまう。
「よくよく考えたら、今まで一人暮らしで仕事帰りに誰もいなかったのにこんな準備がいいのっておかしいなって……冷静に考えたらユーヤがいたことを思い出したんだ!」
恭隆の姿はズボンだけで上半身はすでに脱いだ後だった。吸血の時に覗く肩より下の、鍛えられた胸もはっきりと見える。セットが少し乱れた髪も、ユーヤには新鮮だった。
恭隆は一通り言い終わると、ユーヤの方を見て、先ほどまでの疲れ切った表情からは変わり、柔らかい笑みを浮かべた。
「……ただいま、ユーヤ」
数日間聞いてきた、優しい声色に、ユーヤの顔もほころんだ。
「おかえりなさい、恭隆さん」
恭隆が風呂から上がり、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔でリビングに戻れば、ユーヤが台所に立っているのが見えた。昨日のうちにガスコンロの使い方を教えていたからか、用意していたレトルトカレーを温めていてくれていたようだ。
(エプロン、買ってこようかな)
まるで新妻のようだと、兄のところでしか見たことのない光景をユーヤに重ね、恭隆の脳内で妄想が膨らみ始める。家事をしてもらうのなら、エプロンは大事かもしれない。
ふと目線をテーブルに映せば、一枚の紙――ユーヤが昼間受け取った、ユーヤの父親からの手紙が置いてあった。思わず恭隆は手に取り、中身を広げてしまう。最初の一文からユーヤ宛てのものと気づき、すぐに閉じた。
「すまないユーヤ。手紙を見てしまった」
「ごめんなさい、片付けそびれてました……!父からなんです!」
「お父さん?」
火を止め、大盛ご飯とレトルトカレーをもって恭隆の元へ駆け寄る。スプーンはお願いします、とユーヤは困ったように笑った。
「銀、やっぱだめか」
「大丈夫だと思うんですけど、ちょっとこわくて」
仕方なく、いそいそと台所へ行きスプーンと、ついでにサラダを持ってきた。
二人とも腰を落ち着け、先ほどの手紙の話に戻る。
「……ご家族への連絡はとれないんじゃなかったのか?」
「僕からは、です。両親からこんな早く来るとは思わなかったですけど、向こうからの連絡手段はあります」
そういうものなのかと、恭隆はリビングのイスに座り、手を合わせた。ユーヤは昨日の吸血で腹が満たされているようで、今日は問題ないとのことだ。レトルト特有の、溶けるように混ざり合っている野菜を口の中で押しつぶし、飲み込んだ。
「何が書いてあったか、聞いてもいいかい?」
「健康に気をつけろ、とか。……ああ、そうだ。『キーパー』や紛れ込んでいる吸血鬼とかにも気をつけろって」
「……キーパー?」
「吸血鬼を取り締まる吸血鬼。人間でいう、警察のようなものです。修行を終えて、普段は人間と同じように生活をしていますが、悪さをする吸血鬼を見つけるのが仕事です」
「……そういうのもいるのか。紛れ込んでいる吸血鬼は?」
「僕のように、修行中で人と暮らしていたり日常生活にいる吸血鬼です。……どちらも同じで、見分けはつけられませんが『キーパー』は安定した生活ができているので、日光も一日中受けられるまではいきませんけれど、耐性が強くついていると、聞いたことがあります」
「……本当に、人間と区別がつきづらいんだな」
恭隆はふと、何気ない日常の中に吸血鬼がいるかもしれないと心の中で思う。駅へ向かう途中、電車の中、社内……、いたるところに人がいて、その中に吸血鬼が潜んでいるとしたら。
「怖い、ですか?」
「んー、確かにちょっと怖いかな。ユーヤみたいに、子どもの姿をしている吸血鬼ばかりじゃないだろうし、襲われたら反撃しようもないかも」
「…………」
ユーヤは一度顔を俯かせ、口をつぐんだ。恭隆にその様子は見えず、残り少ないカレーを口に運んでいく。
「そう、ですよね……。ああ、でも拒絶されたまま吸血を行うこと、それに人間に対する暴力行為は、『キーパー』の取り締まり対象になります。……寝ている間にこっそり、は、問題ないんです」
「ないのか、それは……」
少し気まずそうに言うユーヤを見れば、恭隆も苦笑いを浮かべる。言われてみればユーヤもはじめは寝込みを襲ってきていた。あの行為は、ぎりぎりのラインなのだろう。
「あとは、吸血鬼同士の戦闘も『キーパー』の取り締まり対象になります。血の強奪をせずとも、対象が良しとすれば共有だって可能です。争う必要はないんです」
「共有もいいのか? 眷属を得るには、同じ血を吸い続けることが条件だったはずだ」
「あり、だとは思います。……見たことがないので、分かりませんが」
眷属が恋人やパートナーと同じようなものであれば、共有というのはなかなか難しいものであろう。それも、当人たちの同意があればこそだとは思うが、一人の人間に二人の吸血鬼となれば、人間側の負担はかなり大きいだろう。
「人間の中に、まぎれる、か」
恭隆の胸裏には、昼間のことが思い浮かばれる。上着をかけてくれ、肩のことを凝視してきた田崎が、どこかひっかかる。
(駅ビルでのこともそうだ。吸血鬼だとバレないよう、エスカレーターを避けるのも頷ける)
エスカレーターの保護板に映らないユーヤへの対応として「気づいていない」のなら、言葉そのままに運動不足を補うための行為として受け止められる。しかし、田崎自身が吸血鬼であるならば、自分も映らないものを避けるのは当然だ。
「ヤスタカさん?」
ユーヤに呼ばれ、はっと頭を上げる。心配そうに見つめるユーヤを安心させるように笑った。
「なんでもないよ。ただ、人間の中にいて、同じ吸血鬼だと分かることもあるのかなって」
「どうでしょう……。鋭い吸血鬼はわかるかもしれません。血を吸った後だと、匂いが多少つくとか……」
ユーヤはまだ修行に出たばかりだったはずだ。人間の中に紛れる吸血鬼を、見た経験は少ないのかもしれない。
「そうか。……ありがとう、ユーヤ。ごちそうさま」
空になった皿を片付けようと恭隆は立ち上がった。片づけまでやらせるわけにはいかないと、台所まで歩いていけば、ユーヤは何か話し足りないのかそわそわとしている。
「……今日、何かあったのか?」
「公園に、行ってきたんです。石碑の話、聞いてきました」
「ああ、気になっていたからな。……明日、聞かせてくれるかな。今日はさすがに、疲れた……」
荒川との商談の後、ハロウィンの報告書の草案をチェックし、クリスマスの進行度を確認し訂正を流した。三連休明けは仕事が多くなりがちだが、こと冬はイベントが多く、頭を悩ませる。
「分かりました。……おやすみなさい」
「ユーヤも、おやすみ」
窓を見れば一つも雲のない満天の星空。どこかで、ユーヤ以外の吸血鬼が、この空の下で食事をしているのかもしれない。
(当たり前のことに、気づかなかったな……)
吸血鬼という存在は、ユーヤ以外にもいるのだ、と。
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