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5-5 混乱の日、たった一つの疑念

 その後の商談は問題もなく、非礼を詫びられながらもいいアイデアを伝えられそうだと満足気な表情を浮かべ荒川は会社を後にした。腑に落ちない感情を抱きつつ、恭隆は社長室に戻ろうとした。 「本条社長」  声を掛けてきたのは混乱の指揮を執っていた永井営業部長だった。ねぎらいの言葉をかければ謙遜した様子を見せてくる。 「社長もだいぶお疲れでしょう。今日の業務はほどほどにして帰られた方がよいのでは?」 「いや、そうしたいのは山々だが、少し店に確認したいことがあって……」 「しかしお顔の色がよろしくないですよ。……昨日小言を漏らした田崎は今いませんので代わりに申し上げますが……」  顔色のことを指摘されるが恭隆にその自覚は無かった。酒が入っていたとはいえ少量だろうし、そこまで酒に弱いわけでもなかった。 「わかった。ほどほどにして帰る……」  そう言われると、思考に明瞭さが足りないような気もする。この調子で取引先に話をするのはあまりよろしくないだろう。それに話す内容が信頼関係に傷をつける可能性を秘めているのだ。 「お気をつけて……」  いたわる永井の声は、恭隆にはっきりと聞こえることは無かった。一人廊下を進んでいくも、声を掛けてくる顔がおぼろげに見えてくる。 (そんなに強い酒でもないだろう……少し、横になるか)  社長室の扉を開き、誰もいない部屋に安堵しすぐに応接間のソファーに寝そべった。張りつめていた空気も精神も、ソファーの柔らかさに溶けて消えていく。うとうとと、ゆっくりと瞼が閉じられていく。  恭隆が目を覚ました頃には、すでに窓の外は暗く腕時計を見ると定時の時間を超えていた。飛び上がりすぐに身支度を整え始める。溜まってしまった書類をかき集めファイルに押し込んだ。 「明日は別件の仕事があるのに……!」  荒川との商談は、あくまでバレンタインの新商品に関わるものだ。昨年までに発売している商品のリメイクに関する商談がちょうど明日控えていることを思い出し、焦燥感にかられる。  暗くなった廊下から、足音と懐中電灯のライトが見える。警備員の見回りだと思い、扉に駆けより勢い良く開けた。 「うわっ……なんだ社長まだいたんですか?」 「田崎くん? 今何時だ?」 「もうとっくに定時過ぎてますよ! ユーヤくんに連絡は?」 「今起きたばかりで……」  なるほどと田崎は眉をひそめながら恭隆の方を見る。 「だから髪がぐしゃぐしゃなんですね。でもなんでまたソファーで?」  社長室からは少し離れているが、いつでも入れる仮眠室も用意されている。休むのならそちらでもよかったはずだと田崎は考える。 「ちょっと横になろうとしただけだったんだ……。田崎くんも、駅までは一緒だろう?」 「そうですけど……社長大丈夫です? なんか顔色悪いですよ」 「……家に帰って休めば問題ないさ」  同じ日に二度同じことを言われるということは相当なのだろう。恭隆は頭を抱えながら、カバンを持ちあげ社長室を後にする。出遅れた田崎も、慌てて駆け寄り恭隆の後を追う。 「もう、どうしたんですか? 店から帰って部長に菓子渡して爆睡してた俺がいうのもなんですけど」 「……田崎くん、商品の製造は見てきたか?」 「え……、まぁ話しながらいつも通りみんな元気だなーって思いましたけど。製造工程も変わらずで、開発と一緒に行った時と同じでしたけど」 「そうか……。子ども用の方に、少し酒の香りがして、苦かったんだ」  田崎は短く動揺の声を漏らし、顎に手を当てる。 「さすがに分けて作ってたと思いますよ。同じ箱に入れてましたけど、香りは移るかもしれませんが味までは混ざらないですよ」 「……そう、だよな」  老舗で付き合いの長い店が、急ごしらえと言ってもそのようなミスをするとは思えなかった。分かっていたはずだが、どうにも自分の舌で感じた味が強く、信じられなかったのだ。

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