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5-6 混乱の日、狂いはじめる歯車
恭隆の様子がおかしいことに、田崎は一つ深いため息をついた。大事な案件を抱える社長の不調は、社にとっても一大事だと思われたのだろう。田崎の様子は恭隆に伝わり、頭を悩ませる。
「社長、明日とかに響くようなら病院行ってから来てくださいよ。俺、明日から出張なのに、おちおち仕事できませんって」
田崎の視線が、一層鋭くなっているのを肌で感じるほどに痛い。
「わかった、気をつけるよ」
足元はまだおぼつかないながらも、それを悟られないようにゆっくりと歩き始める。戸締りをして、警備員に挨拶をしたのち、コンビニに寄ると田崎に声を掛ける。当然という顔つきで田崎もついてきていた。軽い夕食になりそうなものを買い、二人で駅に向かう。
「ユーヤくんの連絡先、今度教えてください。もし社長に何かあったら連絡できるように」
「……わかった」
頭がうまく回らない。会社の話をしているのに、なぜユーヤが出てくるのだろうか。酒に弱いわけでもなかったはずだが疲れも出ているのかもしれない。駅につき、人混みをうまく分けながら恭隆と田崎はホームに向かう。本来なら反対方向だが、田崎はずっとついてきている。家まで送りますかと尋ねられも、さすがにそれには及ばないと笑って返した。
「それじゃあ……気をつけて」
「ああ、田崎くんも」
眉を寄せ、心配そうに見てくる田崎をなだめながら、ホームへの階段を降りていく。手すりにつかまって降りれば問題なさそうだ。
その様子を田崎は見下ろす形で、ずっと黙って見ていた。一瞬だけその目を細め、反対側のホームへと歩き出す。恭隆から香る、酒に似た苦く覚えのある香りに眉をひそめながら。
その日の夜、ユーヤが出迎えるも、昨日と同様に恭隆は疲れ切った顔をして帰ってきた。夕食も温めるだけだから、先に寝ていてくれと声を掛けられる。ユーヤが口を挟む間もなく、恭隆は台所へと進んでいく。
通りすぎる恭隆を目で追っていけば、よろめきながら歩いている様子に胸を痛める。何か手伝えることは無いだろうかと、ユーヤは近づいていく。
「……ヤスタカさん?」
近づいたからだろうか、いつもの恭隆とは違う何かを感じる。
「ん……?」
疲れからか恭隆の反応は鈍い。ユーヤはさらに近づいてよくよく観察する。外見に目立ったものはなく、声色も疲れが見えるが掠れている様子はない。
「えっと……」
「ごめん、今日は話聞けそうにない……。明日の資料を確認したい。……『ごはん』は明日でも、いいかな?」
「それは、もちろん……」
ありがとう、恭隆がそう返せば出来上がった夕食をもって自室にこもるようだ。お盆をもって、恭隆は部屋に消えていく。自身のことでも手いっぱいだろうに、ユーヤのことを気にかけてくれている辺りは、恭隆の優しさが見えてくる。
しかし、何かいつもとは違うと、ユーヤの胸はモヤがかかったように重くなる。
「……香り?」
恭隆が通りすぎたあとに、ふわりとした苦い香りが鼻孔をくすぐる。喉の奥にその香りが引っかかり、声が出しづらくなる。吐き出すように咳ばらいをしても、なかなか消えてくれない。
「なに、これ……」
乾燥でもしたのだろうかとユーヤは台所に向かい水を飲んだ。喉に引っかかるものもなく、水はいつも通りにのどを潤していく。空になったコップを流し台に戻し、ユーヤは一息ついた。
「ヤスタカさん、大丈夫かな……」
声を掛けようにも、掃除の時にも自室に入らないようにと言われている手前、近寄るのは控えた方がいいだろう。疲れているときはなおさらだ。
「明日、ちゃんと聞ければいいけれど」
留守番の仕事や散歩を終え、恭隆の帰りを待つ時間は一人で寂しくなる。今まで大家族で過ごしてきたからなおさらだった。仕方なくユーヤは二階から持ってきた辞書を読み時間をつぶしてから寝ることにした。
翌日、恭隆は眠気を抑えながらも出勤すると言ってきかず、ユーヤも見送ることしかできなかった。あまりに体調が悪そうであれば、止めるべきだとも思ったが、今の恭隆にはその声は届かないだろう。唇をかみしめ、閉まる玄関を恨めしそうに見つめた。
恭隆がバス停に向かう姿を、一匹のコウモリが追いかけていく。家を一瞥した後、恭隆の会社のある方へ飛び立った。
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