33 / 75

6-1 非日常、休息が必要です。

 『本条社長の体調があまりよろしくない』という噂は瞬く間に社内に広がった。今日の商談は午前中に入っており、午後は週末に向けて仕事の整理を行うつもりだった。周りがどうこうと言っても聞く耳を持たない社長に、しびれを切らせたのは傍で様子を見ていた女性――秘書の安岡だった。 「午前の商談が終わりましたら早退してください。これでも譲歩をしている方ですよ」  有無を言わさない姿勢に、いつも以上に鋭い口ぶりに恭隆も押し黙るしかなかった。  商談は先方の気遣いもあってかスムーズに進んでいき、悩みの種は一つ解消された。昨日ユーヤにかまう時間を泣く泣く減らし、一人で部屋にこもって資料を読み直した甲斐はあったというものだ。  机に戻り、カバンの中に仕舞っていたスマートフォンを取り出す。まだ連絡先を教えていないため、ユーヤからの連絡はもちろんない。行きがけに見送ってもらったユーヤの、言いたいことを言えず、押し黙っていた様子を思い出せば胸が痛む。 (ユーヤにも悪いことをしてしまっているな……) 一息をつき扉を見れば、様子が気になっていたのだろう数名の社員……おそらく各部門の代表者だろう、本社に集まる部全部が集まっていた。 「……愛されてるなぁ」 「当然です。皆貴方の下で働けることに意義を感じています。……ですから早いうちにお休みになられてください。家で待つ人もいる身なのですから」 「安岡さんも、随分優しくなった気がする……」  社員に後押しされ、心配されたら敵わない。帰る準備をまとめ、恭隆は立ち上がる。どうにも立ち眩みがして、一度机に手を置いてしまう。駆け寄ろうとする安岡を制止し、そのまま歩き始めた。 「お気をつけて、社長」  安岡の言葉に恭隆はにこりと笑うだけにとどめ、社員が集まっている社長室の扉へと進んでいく。その中には永井営業部長の姿も見えた。 「昨日は助かった、ありがとう」 「とんでもない。明日は商談の予定もないでしょうし、休まれてもいいと思いますよ」  家で仕事をしてもいいなら、と言うものならここにいる全員から叱られるだろうなと苦笑いを浮かべた。  集まっていた皆に礼と挨拶をしつつ、恭隆は廊下を歩いていく。その後ろを全員がついて歩いているが、恭隆は気づいていない。部署に残っていた面々も、恭隆が廊下を歩いているのを見かければ総出であいさつをかけていく。 「社長お気をつけて!」 「後のことはお任せくださいね!」 「来週も予定ありますから、ゆっくり休んでください!」  矢継ぎ早に飛んでくる言葉に感極まるものがあり、思わず恭隆の瞳が潤みだす。弱っているときは涙もろくなるとは知っていたが、ここまでだったのだろうか。 「ありがとう、ちゃんと休むよ」  恭隆から言質を取ったところで全員が恭隆の退社を見送り、それぞれの部署に戻る。社長の休みが入ろうが会社が回ることを証明しようと、皆奮起しているのだ。  だからだろう、社長室の机にスマートフォンが置き忘れてあった事を誰も気づかなかった。  会社から少し歩き、駅前のロータリーまでたどり着く。平日ではあるが人では多く、オフィス街ということもあり、ランチを楽しむ親子連れやサラリーマンの姿も見えた。 (少し、休んでから帰ろう)  熱や頭痛といった症状はないが、身体全体の倦怠感が襲ってきている中で電車に乗るのは、少し身体に堪える。出社前は気力で乗り切っていたが今はそうではない。少し外の空気を吸うだけでも違うだろう。  ロータリーにあるベンチに腰掛け、一息つけば秋空に飛び立つ鳥の鳴き声や、どこかと電話しているサラリーマン、仲の良さそうな友人たちとランチを楽しむ人たちなど、様々な声が聞こえてくる。目を閉じてもありありと浮かんでくる光景の中に、ユーヤの声が聞こえてくる。もちろん、それは幻聴だろう。 『ヤスタカさん、今日はいい天気ですね』  まだ出会ってから間もない少年は、にこやかにそう言うとこの青空の下を、帽子をかぶって立っている。そんな光景がありありと浮かぶくらいには、彼のことを認識しているのだ。 『あ、あれはなんですか?』  まだ街中へ出かける経験が乏しい彼は、きっといろいろなものに興味を持つだろう。この駅の周り、こと昼時にはキッチンカーも止まっている。デザートになりそうなものを売る店もあり、散歩で訪れても十分楽しめる場所だ。確か先ほど見たときにはクレープ屋があったはずだ。  恭隆は、ユーヤに好きなものを頼んでいいよということだろう。ユーヤが何を頼むかは予想つかなかったが、迷ってしまうことは考えられる。うんうんと悩み、これと選んだものを、恭隆にも分けてくるかもしれない。 『どうぞ!』  満面の笑みでユーヤが差し出している光景は、容易に想像できる。恭隆の血で染まることもあるその口元に、生クリームがあったらさぞ愛らしいだろう。人前で舐めてみたらどうだろうか。きっと彼は恥ずかしがって、いつものように胸元を叩いてくるかもしれない。

ともだちにシェアしよう!