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6-2 非日常、彼の素顔

 ユーヤのことを考え始めたら、知らぬ間に口元が緩み、疲れも相まって夢心地になりそうだった。しかし現実に聞こえてきたのは、聞き覚えのある低い声だった。 「本条社長?」  その声で瞼を開き、上を向けば昨日一昨日と会社を訪れていた荒川の姿がそこにあった。来客の予定は午後なかったと思っていたこともあり、何度か瞬きをする。 「……荒川さん、今日は何もなかったはずでは?」 「得意先に営業へ行っていたんです。随分と、お疲れに見えますが……。昨日は、無茶な願いを聞いていただいてしまって……」 「ああ、いえ、私は何とも」  少なくとも、荒川の会社の一件が体調に影響しているのは間違いないだろう。だがそれを明言するのはあまりにも不躾だ。駅周辺には店も多いがオフィスも多い。ちょうど商談が終わったと荒川は言った。  近くに座っていた、スーツを着た者や私服の者のすべてがこちらを見ている。小さな声で「社長?」という動揺が聞こえてきた。恭隆の外見では中堅の社員と言われても首を傾げる者も多い。悪目立ちしていることに気づき、荒川はバツの悪そうな顔を浮かべる。 「隣、座っても」 「ええ、どうぞ」  荒川が隣に腰かけ、二人の顔が見えなくなったあたりで周りの視線も散り散りになった。改めて見る荒川の体躯はよく鍛えられていて、体力も恭隆以上にあるのだろう。激務に追われているように見えて、疲れの色は全く見えない。  十分ほど何も語り掛けることも、話を振られることもなく、二人はただずっとロータリーの様子を眺めていた。 「……このロータリーはいいですね。人の動きがよく見える」  ペットボトルを手に持ちながら、荒川はようやく口を開いた。恭隆も荒川の視線につられ見れば、せわしなく動き回る人々の姿が目に付く。 「楽し気にしている人、眉を寄せながら足早に進む人。……実に様々で、面白い」 「人間観察、でしたっけ。お好きなんですか?」 「営業の癖でしょうかね」  クスリと笑う荒川の表情は、一昨日自分たちの体格について話した時とまた異なり、楽し気だった。 「見目を着飾るものがいたら、その口ぶりを見て真似をしたりします。……少しでも、好感を持たれるように」 「働いていると、よく思われようと整えますからね」 「……私生活でも、同じようなものです」  荒川の、少しだけ声のトーンが下がったのが意外で、恭隆の視線は荒川に向かう。 「社会人になりたての頃は、営業で何とか慣らそうとしてました。けれど空回りばっかりで、怒らせて上手くいかず。私生活もボロボロで」 「……私もそうでしたね」  恭隆の胸中には、今まで付き合ってきた人々の顔が浮かんでは消えていく。ただ自分の欲望を満たそうとするだけの、なんと難しいことか。 「本条社長も?」荒川は意外そうに聞き返す。 「ええ。……人から受け入れられようと、心を押し殺す日もありました」  疲れがたまり、思考がマイナスに寄ってしまっているからか、荒川の話に合わせ感傷的になっている。恭隆は自嘲気味に笑いながら続けた。 「恋人相手にもそんな感じで、どうも長続きしない」  若社長と言う肩書は恭隆の想像以上に異性を惹きつけた。年上から玉の輿を狙う年下も少なくなかったが、誰も彼も恭隆の『趣味』に誤解をして、ユーヤのように話をまともに聞く姿勢を持つ者はいなかった。 「恋人に隠し事はしたくないと思っても、踏みとどまってしまったり拒絶されたり」 「……そう、ですよね」  相槌を打つ荒川の声が小さくなる。 「この世界は少し、生きづらい」  荒川がぽつりと漏らした言葉は、恭隆にもよくわかる。何も考えずに過ごせたらどれだけいいだろうと、心の中で思う。 「だからでしょうか、美術……デザインという別世界に心惹かれました。この世にありながら、この世界から想像できないものを生み出す力があるもの。一目見ただけで、映る景色ががらりと変わる魔法のようなもの」  荒川はうっとりと、秋空に今まで見てきたデザインを思い浮かべるように宙を見る。声色も柔らかく、夢心地に映る。 「パッケージデザインの授賞式に付き合いで出席した時に、今の会社……植原社長に声を掛けてもらったんです。ちょうど今の会社の作品が展示されていて、それをずっと見ていて。そうしたら、植原社長の目にとまったようで……。まぁ、一言で言うと前の会社のより、好きだったんです、デザインが。すると社長が『好きだと思った人のところで、花を開かせられるのがいい。デザインはそれに答えてくれる』って、何気ない言葉だったんでしょうけど。それが、心地よくて」  その言葉がきっかけで植原社長と何度か話すようになり、引き抜きにあったのだという。商品の素材を活かし、追及している姿勢や、社長の探求心、それらが生み出した彼の会社のデザインは見るものを魅了する。だからこそ、恭隆の会社もオファーをかけたのだ。 「いろんなデザインは、見たことのない自分も見せてくれる。……自分が何者であったかさえ、忘れられるほどに」  口元に浮かぶ笑みは、恍惚とも、自嘲とも分からない不思議なものだった。 「お好きなんですね、デザインが」 「うちの社長に惚れこんだこともありますが……。好きでないと、やっていけませんから」 「それもそうですね。私も昔から菓子が好きで、だからこそやっていける」 「本当に……。本条社長と、随分とウマが合いますね」 「バレンタインの件の後も、プライベートでお会い出来たら嬉しいですね」 「それは是非。うちの社長もきっと喜ぶでしょう」  荒川と話していたら、体調の悪さがどこか薄れていくように思えた。荒川の仕事以外の顔を見られることで、仕事相手とはいえどこか人間らしさを感じることができた。仕事を忘れさせ、気が楽になったのかもしれない。 「ああ、お疲れのところすいませんでした」  荒川が立ち上がり、少し慌てた様子を見せる。日は少し陰りはじめ、午後1時を過ぎたことを知らせるチャイムが鳴り響く。 「これからまた商談へ向かわないと。……本条社長は?」 「私は、これから帰ります。疲れが取れなくて」  荒川は何かを言いかけたように口を開き、一文字に結んだ。先ほどまでの楽し気な表情とは別に、眉尻を下げ呟いた。 「……お大事に」 「ありがとうございます」  恭隆が返したのを聞いて安心したのか、荒川は一礼した後駅に向かって走り出した。一瞬だけ荒川が胸元を抑えたように見え、恭隆は目をこする。 (疲れているんだな……。俺も、荒川さんも)  恭隆はまた瞼を閉じ、聞こえてくる人の声に耳を澄ませた。  過ぎ去る荒川がこぼす、熱い吐息は恭隆の耳にまで届くことは無かった。

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