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6-4 非日常、荒川という男
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カツン、カツンと、電灯が消えたオフィスに革靴の音が響く。本来この時間には多少残業をしている社員もいるが、社長である恭隆の意向で残業を減らしているため人数が少ないはずだった。しかし、今日は全員がオフィスに残っていて、疲れからか皆一様に、デスクに資料とお菓子を残して、突っ伏し眠っている。
聞こえる革靴はオフィスの様子を一通り見て回れば、社長室へと向かっていく。鍵がかかっていないのを確認して、ゆっくりと音を立てずに開けてみれば、部屋の主は昼間に帰っているため誰もいない。
――革靴を履いた男、荒川は、それを知っている。分かっていて、ここにいるのだ。
上着の内ポケットに仕舞っているスマートフォンが振動し、着信を知らせてくる。画面を開けば、男が勤めている会社の社長である、植原巽の名前が載っている。
「……もしもし」
『ああ、丈くん。今どこだい?』
落ち着いた低い声の植原は少し機嫌がいいのか明るく尋ねてくる。会社では呼ばれない、下の名前を呼んでくることに、少しだけ口元を緩める。
「家にいますよ」
『そうか、もしよければ夕飯を一緒にどうかなって。今日は肉じゃがなんだけれど、作りすぎてしまった』
「いえ、すいませんが今日は……。まだ抜けないのですか、多く作る癖」
そう尋ねられれば、植原は息を詰まらせる。意地悪な質問だとは理解していた。
『……ああ、どうにもね。いい加減どうにかしないとって思っているんだけれど。いつも丈くんが食べてくれるから』
スマートフォンを握る手が強くなる。申し訳なさそうに話す声は優しく、植原の人柄を思わせる。肉じゃがは彼の得意料理のひとつで、何度も口にしたことがある。ほろりと口の中でくずれるイモの煮込み具合は、お気に入りだった。
「美味しいからいいんですけどね」
『余らすわけにはいかないし、明日のお弁当に持っていこうかな。……丈くん、明日はずっとオフィスにいるよね』
「……はい」
返答にどもってしまった。どこか声色も震えていないだろうかと考えたが、植原の反応を聞くにその心配は杞憂だった。
『そうか、じゃあ一緒に持っていくよ。いつもオフィスでは少食だと、みんな心配しているよ。夕飯だけ多く食べるのは良くない』
「小言は聞きたくないですよ」
『あはは、ごめんごめん。やっぱり年を食うとだめだね』
「まだ40代もいってないのに」
まだまだ若いと言いたかったのだが、植原の捉え方は違っていた。
『……もう、そんな年だよ。丈くんはまだ30だから。35を超えると一気に変わるよ』
優しい声の裏側には、寂しさを感じさせる植原の声色に、眉間のしわを深くする。
『働き盛りで、何も考えずに過ごしていたら、妻にも愛想をつかされ一人に戻った。……だから夕食もつい二人分作ってしまう。手癖が抜けないし、次と思うのは怖くなる。……仕事も手につかない』
返事はあえてしなかった。長い話になるのは、植原の癖の一つだと知っていた。
『だけど、丈くんがうちの会社に来てくれてから活気が戻った。士気を弱めていたのは私なんだから、私が元気になったんだね。デザインを褒めてくれて、営業を立て直してくれて、私の話し相手になってくれた』
長く話す癖が離婚の原因の一つだと、以前植原から聞いたことがあった。一番の理由は、妻の不倫だったとはいう。よりによって、相手の男も既婚者でありながら今なお不倫関係を続けているという。この耳に心地よい声色と落ち着いた話し方は、彼の魅力の一つだというのに、気づかないうちに唇を強くかみしめる。
『きっと今の案件のところの……、そうだ、本条社長にも好感触だったと思う。まぁ、今回はちょっとトラブルがあったから、今度一緒に挨拶に行こう』
植原の電話先では、ぐつぐつと肉じゃがが煮え立つ音が聞こえてくる。彼はマンション住まいで、台所は小さい。そこから見えるダイニングテーブルのイスは二つで、今日は一つ空いたまま、彼が一人寂しそうに食べる光景が、ありありと浮かんでくる。
『ああ、予定があるんだよね。電話はこのあたりにしよう』
「社長」
『なんだい、丈くん』
これ以上の長話は彼の負担になると思いながら、電話が切れるのを止めようとした。
(できれば、このままずっと)
夜風が社長室の窓を弱弱しく叩けば、今自分がいる状況を思いだす。オフィスで『眠らせた』社員たちが起きるのも、時間の問題かもしれない。
昼に恭隆と別れたあと、適当に時間をつぶし、恭隆の会社を訪れたのは午後三時。詫びの品と言って渡した菓子に含ませた『自分の血』は、社員たちを酩酊状態にさせ、次第に眠りにつかせていた。ほのかに香る酒の香りは、酒蒸しのまんじゅうだと言って誰も違和感を持っていなかっただろう。
その眠りがいつ解かれるかは荒川にも分からない。なにせ今自身は『空腹』なのだ。
「……いえ、なんでも」
『ふふ、珍しいね。丈くんが誤魔化すなんて。……でも、一人でいたいときもあるだろう』
「え?」
『少し弱気だろう? 今回のトラブルは君のせいじゃない。商品についてのデータが消えたのは、クラウドを管理している会社のエラーだ。誰も君を責めやしないし、もし本条社長が、昨日の訪問について何か追及していたなら私からも話をする。……安心して眠りなさい』
的は外れているが、弱気になっているのは事実だ。久々に行う食事に興奮しているのと同時に、今後に支障が出てしまうのではないかと、今になって不安になってきたのだ。
(ああ、電話に出なければよかった)
顔を俯かせ、苦笑する。これから、植原にどれだけ迷惑をかけてしまうだろうか。昼間にもあれだけウマの合った恭隆も、あそこまで体調を崩すとは思わなかったのに。
だが、止められない。止まらなかった。
遠くから聞こえてくる、ビルのセキュリティーを外す電子音と、窓に合図を送ってきた伝書コウモリに、荒川は顔を上げ、口元の歪みを正す。
「大丈夫ですよ、社長」
『丈くん?』
「私は、大丈夫です。おやすみなさい。……どうか、よい夢を」
『丈くん? ちょっと待ってくれ、丈く……』
電話の向こうで慌てた様子を見せる植原の言葉を遮るのは心苦しかったが、もう後戻りはできない。
この優しい男を裏切った『人間』は、どんな気持ちだったのだろうか。その追求の実験の場は、整ったのだ。
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