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6-5 非日常、社長として 人として

 恭隆がオフィスについたのは夜7時を過ぎ、すでに定時は過ぎているはずだった。時間式のセキュリティーは動いているにもかかわらず、出勤していたすべての社員、パートがまだオフィスに残っており、皆一様に眠っていたのだ。 「何だ、この状況は……」  異様とも取れる光景に恭隆は動揺を隠せない。警備室ですら眠りについてしまっており、様子を伺うも寝息は規則正しく、机の上には途中だっただろう報告書と、茶菓子だろう酒蒸しのまんじゅうが置かれていた。 「……この菓子、うちのじゃないな」  茶請けとして使うものも小腹が空いたときに食べるものも、大体が自社製品であるはずだ。もちろん、他社のものを食べるな、という禁止令を出しているわけではない。営業からの手土産品以外では滅多に持ち込まれない他社の製品は珍しい。警備員の食べかけを拝借し、匂いを嗅いでみる。僅かに香る酒の香りが、昨日のことを思い出させる。 「子供向けのチョコレートにあった香りと一緒だ」  チョコレートに使用されているはずのそれは洋酒であり、酒蒸しのまんじゅうには使わない。それに、同じ店で作られているものではないのは明白だった。  昨日のチョコレートの香りは、制作工程から移ったものではないことがはっきりした。そうなると、考えられることは一つ。 「……荒川さんが?」  少なくともチョコレートの一件に荒川が関与している可能性は出てきた。だが、仕込む隙があったかと言われると疑問は残る。用意したのはこちら側であり、恭隆が席を外したのはお茶を入れた数分だけだ。その間荒川は大人向けと合わせ二点の菓子をじっくりと観察し写真を撮っていた。他に隙は無く、戻った恭隆が食べたのは間もないころだった。 「その間に何もなかった、なら……」  可能性として考えられるのは、菓子を店から運んできた田崎だ。今日彼は出張で、ゆっくり一泊でもして帰ってきたらいいと以前話していたことを思い出す。仕事熱心にすぐ会社に戻って、この酒蒸しのまんじゅうを手土産に、ということは十分に考えられる。 「……なんにせよ、みんなを起こさないとな。何でまたみんな寝てるんだ?」  警備室を出て、部屋を周っていけば皆同じまんじゅうを食べていたことが分かる。何名かの身体をゆすってみたが、起きる気配はしない。社長室にあるはずのスマートフォンで会社に電話をすれば、皆飛び起きるのではないかと恭隆は考えた。  4階にある社長室にたどり着けば、鍵がかかっていなかった。先ほど秘書課の様子も確認したが、安岡を含む課の全員が眠ってしまっていたため、誰も施錠をしなかったのだろう。 「……案外早かったですね、本条社長」 「荒川さん……」  脳裏によぎったうちの一人、昼に別れたばかりの荒川が、応接用のソファーに座っていた。暗がりでその表情はうかがい知ることは出来ないが、彼から感じるものに恭隆は既視感を覚えていた。 (ユーヤに『交換条件』を持ち出した時に感じたのと一緒だ)  背筋への悪寒、人ではない者に対して感じる畏怖のような感情。それを今、はっきりと荒川から感じ取ることができる。 「スマホ、忘れていらっしゃるとは思わなくて。……明日の朝まで待つところでした」 「貴方が、皆を眠らせたのですか……?」 「ええ、そうですよ」  悪びれる様子はない荒川はソファーから立ち上がり、恭隆のスマートフォンを手に取る。チカチカと光っているのを見て、口元が緩んだ。 「社にいるのは、全員ではないようですね?」 「……なぜ、このようなことを」 「ある実験をしようと思って」  荒川は普段と変わらない、軽妙な足取りで恭隆に近づき、スマートフォンを渡す。外部への連絡はとれそうだが、どこに電話をかければいいか、混乱する恭隆には判断がつかない。  ロック画面の通知を見れば、電話がかかっていたようだ。荒川の様子を注意深く伺いながら、ロックを解除し、電話の相手は田崎だったことが分かった。 「どうぞ、呼んでください。……あなたの血を吸っている、吸血鬼を」 「っ……吸血鬼? 荒川さん、なにを」 「吸血鬼に吸われている人間は、結果的に刺された箇所から唾液を吸収することになります。私の血への抵抗、いわば抗生物質のようなものですよ」 「荒川さんの、血……?」 「貴方が昨日食べた試作品の菓子、そして、ここの社員に振舞った詫びの菓子には、私の血を混ぜてありました。……抵抗のないものを眠らせることのできる、私の血を。先日からの疲れと体調不良は、私の血を拒んでいるから。貴方が他の吸血鬼に、血を吸われていることの証明です」  荒川は近づき、恭隆との距離を詰め始める。次第にその顔が見えてくるが、表情に感情は無い。取り立てて気づいたことと言えば、その顔に浮かんでいるのは『飢え』であることだ。とっさに、荒川から距離を取る。 「そもそも会社の中に、被捕食者がいないかを確認したかったのですが。一番疑わしかった男が今日いなかったのが悔やまれます」  おそらく、初めての商談で不審な動きを取っていた田崎のことだろう。人間が吸血鬼を判別する術はあるだろうが、あの一瞬で見抜けたとしたら相当なものだと思う。 「貴方は、吸血鬼、なんですね」 「はい、そして今、貴方の血を吸いたいと願っている者です」  月夜に照らされる荒川の口元は歪み、牙がはっきりと見える。オールバックの黒髪は、ユーヤのように白色が混じり、耳がとがっていく。今にも食らいついてきそうな欲を前面に出した、吸血鬼の姿だ。 「……残念ですが、貴方に俺の血を吸わせるわけにはいきません」  恭隆は、一歩一歩、じりじりと後ろに下がりながらも、荒川から視線を外そうとはしなかった。荒川を見つめる瞳は力強く、迷いはない。 「社の皆に、危害を加えた者に、社長として身を差し出すわけにはいかないですから」

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