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6-6 非日常、襲い掛かる悪夢

 吸血鬼が犯してはいけないことは、ユーヤから少し聞いている。 『拒絶されたまま吸血を行うこと、それに人間に対する暴力行為は、『キーパー』の取り締まり対象になります』 (この近くにキーパーがいるかは別だが、荒川さんが仕掛けてくることは無いはずだ) 「……社員がこのまま起きないと言ったら?」 「知り合いの吸血鬼に、そんなことが可能かを聞いてから、判断します」  頑なな姿勢を崩すことなく告げる恭隆の目に、明らかな荒川の焦りが見え始める。彼を襲う『飢え』は、ユーヤを見ていればわかるが、倒れこむほどにつらく、本来なら荒川を救ってあげたいという思いも湧くだろう。昼間に、少しでも笑って話していたのならなおのことだ。  しかし、恭隆にとって大事なものに、暴力的なほどではないが危害が及んでいる状況を作り出した張本人に、易々と同情心から身を差し出すことはしたくなかった。  荒川は一度強く唇を噛みしめるが、すぐに口を開いた。 「わかりました。では呼んでいただけますか? 知り合いの吸血鬼を」 (さっきもここに呼んでくれと言っていたが……家に電話は無いし、ユーヤに連絡用のスマホは持たせてない……)  素直に連絡手段がないといえば、荒川はどんな反応をするだろうか。この現代社会において、スマートフォンを持っていない人間は老人か子どもだ。ユーヤは来たばかりだからと言うが、それが通じるかと言えば、恭隆は不安であった。 (大分余裕がないように見える……そりゃあ、腹が減っていればな……)  だからと言って、一度家に戻ると言えば逃げられるも同然、荒川は許してくれないだろう。兄弟たちに行ってユーヤに来てもらうように伝達するわけにも行かない。ユーヤは会社の場所を知らず、今は夜、近所の人に聞くことも難しい。そもそも一人で来させるのは危険すぎる。  押し黙っている恭隆に、呼び出す意思はないと思ったのだろう、荒川はまた一歩近づいてくる。 「……今ここで、貴方を襲うわけにはいかないのです。実験には」 「その実験って……?」  とりあえず外に出なければ話にならない。ゆっくりと扉の方へ近づく恭隆を、荒川は咎めなかった。 「人間は、愛する者は一人だけ。ですが、愛する者を、誰かのものを奪うという感情はどのようなものかと」 「……それって、どういう」  恭隆は今独身で、誰のものでもないはずだ。自分の身に降りかかる災難にしては的外れだと首を傾げる。 「貴方の吸血鬼に見せつけようと思いましてね。私とあなたの、食事の絵を」  舌を舐めずりながら恭隆を見る欲にまみれた目はぎらつき、捕食者側の目をしていた。 (抵抗している人間は狙わない、んだよな?)  社長室の扉を開き、一歩廊下へ出ようとした時だった。逃げると思ったのか、荒川は身をかがめ手を伸ばしてくる。直後、ちりちりと腕が染みるような痛みを覚え、右腕を見ると、ひっかき傷のようなものがついていた。上着やスーツを貫通しているということだ。 「っ……!頼むからキーパー仕事してくれよ……!」  ひるむことなく、恭隆は廊下奥にある階段へ向かって走り出した。心持ち余裕があるのか、荒川はすぐに追おうとはせず、剣のように伸びた爪についた恭隆の血を、ぺろりと舐めあげる。一瞬目を見開き、すぐに口元を歪ませた。 「……やはり食事は、旨いものに限るな」  遠ざかっていく足音が響く階段の方へ、ゆっくり歩いていく。空腹から余裕はないが、焦りは極力見せないように。 (だが、すでにこの味を知っている者がいる)  まだ見ぬ吸血鬼の気配を探ってもなく、今こうして奪おうとしているにも関わらず、荒川の心中は穏やかではない。 (やはり、奪っても、奪われても……離れても、面白くない)  愛する者のそばを離れ、他の場所に居を作ることの楽しさを、まるで見いだせていない。 (ならなぜ、どうして……!)  恭隆の血を吸う吸血鬼が現れれば、まだわかるかもしれない。一縷の望みを抱え、荒川は恭隆の後を追い続けた。  逃げだした恭隆は、一度玄関先まで走り抜けたが、入口は恭隆を招き入れた段階でロックがかかっていた。ロックを解くためのカードキーは持っているが、うまく反応しない。警備室を見れば、電源がショートしているのが見えた。線がむき出しになり、近づいてみると何かに噛みちぎられたような跡まである。 仕方なく二階の物置に一度身をひそめ、電話がかかってきていた田崎に連絡を取ろうとしていた。ユーヤへの連絡手段は田崎にはないのは知っている。 (律儀にユーヤを呼ぶわけがないだろ……!こんな危ない状況なのに……!)  数秒の間をおいて、田崎は電話に出てくれた。いつものように明るい声が聴けると思ったが、聞こえてきた声には少しの焦りがうかがえる。 『社長!? 俺何度もかけたんですよ!』 「小言は後だ。田崎くん、今どこにいる?」 『え、今ですか? さすがに会社の経費で泊まるの忍びなかったんで家ですけど』  田崎の家は隣県であるが交通網がよく、電車だと一時間ほどで着くはずだ。今の状況を一時間やり過ごせるかと言われると正直不安だった。 「そうか。手短に話す。オフィスに不審者がいるから警察に連絡してくれ」 『不審者って、電話繋がってるじゃないですか』 「俺からかけると説明している時間が惜しいんだ。会社のみんなのこともある、頼まれてくれるか」 『電話はいいですけど、みんなってどういうことです?』  荒川のことをどこまで話すかは迷ったが、田崎が一般人であることも考慮して、少ない情報量だが伝えることにした。 「全員寝てるんだ……催眠薬か何かかもしれない」 『午後かけても全員出なかったのそれが理由です!? ちなみに異臭とかはないです?』  田崎の質問に違和感を覚えたが、匂いのことを聞かれれば、酒蒸しのまんじゅうから香る酒の匂いが忘れられなかった。 「……洋酒の匂いがした」 『分かりました、出来るだけ早く対処しますんで。社長は出来ればずっと隠れててくださいよ?』 「……努力はするよ」  廊下に響く革靴の音に冷や汗を流しながら、恭隆は答える。これ以上の電話はできないだろう。田崎の声が受話器越しに聞こえてきたが、断腸の思いで電話を切る。

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