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6-8 非日常、思いをぶつけろ!
恭隆の前に立つユーヤの息は少し荒い。空腹の状態で休まず飛んできたのだから無理は無いのだが、まだ体力が満足に付いていないことも要因だろう。ユーヤは口元を抑え、顔をしかめる。
(昨日、台所で感じた嫌な苦い香り……この吸血鬼がつけてたんだ……)
傍に座り込んでいた恭隆は立ち上がり、ユーヤと共に荒川を見る。ユーヤの姿に驚きを隠せなかったようだが、開いた口を一度閉じたかと思えば、彼は笑い出した。
「あっははは! まさか本条社長の吸血鬼が子どもだったなんて! 嫉妬させようにもまだ青臭いじゃないですか!」
「嫉妬……? よく分かりませんが、拒絶している人間の血を吸うのは禁止事項です。子どもに説教されるのは嫌でしょう?」
「……ええ、それは癪に障ります。ですが、それ以上に」
荒川の様子が、明らかに変わった。声の調子は低くなり、顔を俯かせる。ユーヤが一歩近づこうとした。
それは一瞬の出来事に思えた。荒川は手を前に振り上げ、長くなっている爪は確実にユーヤの右脇腹を貫き、その小さな体がよろめき腹を抑える前に薙ぎ払った。
「ぐぁっ……」
衝動で壁にたたきつけられたユーヤは、ずるりと壁を背に座り落ちる。血が出始めた腹を抑え、恭隆の元へ戻ろうとする。
「ユーヤっ!」
恭隆はユーヤの元へ駆け寄ろうとするも、足がいうことを聞かず、その場に立っているだけでやっとだった。疲れでも、まして足が固定されているわけでもない。全身から、血の気が引いていくのが自分でもわかる。足の震えが止まらないのだ。
(こんな時に、何震えているんだ……、俺は……!)
「それは怖いでしょう、本条社長」
荒川は淡々と、ユーヤの血がついた爪を払っている。
「貴方は人間、武器を持たねば吸血鬼よりもはるかに弱い存在。私たち吸血鬼の食料」
恭隆に話しかけながら、荒川は霧化して近づこうとするユーヤの気配に気づき、うっすらと見えるユーヤの身体目掛け蹴り上げる。かがんでいた身体、ちょうど肩に当たり、反動で実体化したユーヤは床に崩れ落ちる。
「それなのに、なぜ人間を守らないといけないのでしょうか。吸血鬼が隠れ、自分を騙しながら暮らしていかないといけない」
荒川は一歩、恭隆に近づく。手を伸ばせば届く距離まで詰めたところで一度止まる。
「昼間、本条社長は仰いました。恋人に隠し事はしたくない、拒絶されることもあると。……私もそうですよ。人間に吸血鬼だと言ったら、やれ殺されるだの冗談めいて笑われる。本気だと気付いたところで化け物扱い。青ざめてこちらが殺されかける始末。どれだけ説明しても、相手はこちらを悪として何も聞きやしない。……なぜこちらが排除される側なのか、人間を守らなければならないのか。とんと検討が尽きませんよ」
自嘲気味に笑い、皮肉めいた口ぶりで荒川は話していた。前髪が少し乱れた荒川の顔は暗闇に紛れ、どことなく影を落としている。
「まぁ、そうでなくとも、人間は人間同士で裏切り合い、愛したもののことも簡単に捨てられる。薄情なものですがね」
ユーヤは痛みから立ち上がるまで時間がかかり、ようやっと動けると思ったら、荒川に気づかれ目が合った。
「……そろそろ、私も限界なので」
荒川の視線はユーヤから恭隆に移り、恭隆の太く鍛え上げられた腕を軽々とひっぱり体を近づけさせる。少しだけ荒川の方が背は高く、見下ろされている恭隆はただ荒川の顔を見ることしかできなかった。
「そこで見ててください、まだ若い吸血鬼。……自分のものが取られる瞬間を」
荒川は鋭い牙がよく見えるよう大きく口を開け、恭隆の首元に近づける。硬直した恭隆も、無意識的に首を背け、拒絶反応を見せるも声は出なかった。
「ヤスっ、タカさん、に……」
ユーヤは渾身の力で踏みだし、自分の身長の倍はあろう荒川の腰にしがみついた。それだけではびくともせず、荒川は動きを止めなかったが、ユーヤは思い切り力を込め、恭隆から引きはがした。
「さわっるな……!」
引きはがしたままの勢いで投げ飛ばすまでは出来なかったが、遠心力で荒川の身体は少しよろめき、ユーヤ達から少し遠ざかる。荒川自身も空腹のため、力が入らずよろめいた。
「っ……三日時間を空け、弱らせておこうとしたのは正解でしたが、こうも根性があるとは」
「僕はっ、子ども、でも、まだ、ヤスタカさんに、会ってから、日が、短くても……。ヤスタカさんを、傷つけるのを、許さない……!」
荒川が走り出そうとすれば、右足に激痛が走る。先ほどのよろめきで足首をひねっているようだ。
(こんな時にっ……!)
足を引きずりながらも、荒川が近づいてくるのを見て、ユーヤは恭隆の方を振り向いた。
「ユー、ヤ……?」
「……本当は、したくないんですけど。このままだと、やられちゃいそうなので」
ユーヤは小さく、言葉を漏らす。
「『ご飯』、ください」
恭隆は竦んだままの足を、どうにか動かしてその場にしゃがみ込む。傷がついている右腕を差し出した。
「これで、よければ」
「ありがとうございます」
荒川は息を整えながら近づいてくるが、痛みからかうつむいた。その一瞬を狙い、ユーヤはかがんだ。
ぺろりと恭隆の血を舐め、深い口づけをするように強く吸い上げる。処置を行っていないままであれば跡も残りやすく、血液の味も苦く変わる。
口元を荒々しく彩る恭隆の血は、ユーヤの全身にいきわたり、空腹を徐々に満たしていく。満足するまでにはいかなくとも、一撃を食らわせるくらいには体力を回復させた。
「傷口、押さえててください」
恭隆にハンカチを渡したユーヤは、上体を起こし始めた荒川へ一気に近づいた。その動きの速さに、何が起こったか、荒川にはすぐにわかった。
「しまった……っ!」
「気づくのが、遅かったなっ!」
荒川の長い爪をかがむことで躱し、懐に潜り込めば、荒川の腹を目掛け、ユーヤは肘鉄を深く食らわせた。みぞおちに入り込んだ一撃は、空腹状態の荒川には致命的で、うめき声を上げながら、体勢を崩し床に転げ落ちる。
応急措置の吸血だったため、まだ全身の回復まで行かず、ユーヤもその場で座り込む。荒川の動きも止まり、ようやっと恭隆の恐怖心も少し取り除かれた。一歩、二歩とユーヤに近づいていく。
「……なんとか、なりました」
ふにゃりと笑うユーヤの顔を見て、恭隆の顔も思わず緩む。ユーヤの傍に寄り添うように、恭隆も座り込んだ。
「ごめんな、ユーヤ……」
恭隆の弱弱しい声色に、ユーヤはゆっくりと首を振る。
「大丈夫です、ヤスタカさん」
疲れもありユーヤの瞼が落ちかけそうになった時、鋭く通りすぎる風がユーヤの左腕を貫く。目を見開き荒川の方を向けば、まだあきらめていない瞳を、ユーヤに向けていた。だが、その様子はどうも先ほどまでの闘志とは違う、獣のような目つきに代わっていた。
「だめだっ、完全に飢えてる……!」
「飢えって……全然血を吸ってないってことか……!?」
ユーヤは恭隆の胸を押しだし、早く逃げるように誘導するも、二人ともうまく体が動かない。正気を失った荒川の爪が、ユーヤの全身に迫ろうとしていた。
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