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7-2 休息の日、変わる僕ら

   兄二人が台所にはいり、調理を始めた頃合いにようやっとユーヤが起きてきた。まだパジャマ姿のユーヤは腹を抑え、恭隆を見れば物欲しげな目を向ける。 「……おはよう、ユーヤ」  恭隆は優しく挨拶をして、兄たちに見つからぬよう台所から死角になる隅の方まで誘導する。空腹か寝ぼけているからか、ふらついているユーヤは連れられるがままに歩いている。 「おはよう、ございます」 「まだ眠い? いや、……まずは、腹ごしらえかな」  ユーヤが首を傾げれば、ぐるると腹が鳴る音が小さく聞こえた。頭がさえ始めたのか、恥ずかし気にお腹を抑え俯く。その仕草はよく知るユーヤそのもので、恭隆は心の底から、安心していた。 傷からの出血はほぼ止まっており、先ほど包帯も変えてもらっているため清潔だ。だが、血の量だけはすぐに回復はせず、貧血にならないかだけ不安だった。  ユーヤは恭隆のシャツを脱がせようとして、ぴたと止まる。ボタンに伸びるはずだった指を握り、小さく言葉を漏らした。 「お体、大丈夫ですか?」  今すぐにでも食らいつきたいだろうに、ユーヤは恭隆の心配をしているようだ。愛おしさが勝って、思わず恭隆の頬が緩む。 「ああ、さすがに疲れはあるけれど、寝て食べて休めば落ち着くさ」  シャツのボタンを外し、ゆっくりと肩を出す。ユーヤが吸い付いた痕は全く残っていない、きれいな肌だ。荒川から逃亡していた時も肩に傷はつかず、早々目立つことは無いだろう。ユーヤが『食事』の際、気後れすることもないはずだ。  ユーヤから見れば、恭隆の血行は良好だ。昨晩帰ってきてからの睡眠の質が、今までより良かったのだろう。だが、疲れと共に、荒川の血が体内に入っていることは間違いなく、未だ恭隆の中で残っているはずだ。 「…………」 「ユーヤ?」 「何でもありません」  得も言われぬ不快感が、ユーヤを蝕む。心の中をむしばむ「それ」は、ぐるぐると胃の中を駆けずり回るようで、ユーヤの身体を侵食する。 (おなかが空いているんだ、きっと)  ユーヤは不快感を払い落とすように、恭隆の肩に牙を添える。ゆっくり、かみしめるように降ろした牙の先はぷつりと恭隆の肌に微細な穴を開け、うっすらと血が滲み始める。一度、ユーヤは口を離し、徐々にあふれてくる血を舐める。ひりひりと、染みるような痛みを覚えた恭隆の小さな声が漏れたのを、ユーヤは聞き逃さなかった。 (……痛そうにしている、やめなきゃ)  口づける様に唇を肌に添え、少し強めに吸い上げる。喉奥にまで届く恭隆の血は、疲労からか少し苦みを感じる。体力がまだ回復していないのだろうか、恭隆の吐息は、わずかながら苦しそうに感じる。 (やっぱり、まだ大丈夫じゃない)  激しく鳴るユーヤの喉に、恭隆の血は吸われ続ける。段々と苦みが薄れ、過去に吸ってきた味に戻っていくのが舌の感覚でわかり、ユーヤの口元が弧を描く。 (美味しい……。ヤスタカさんの血は、やっぱり、この味だ)  自身が刺した傷跡に、唇を触れさせるだけのキスを落とす。とっさに起こした行動だが、ユーヤはふと、恭隆から受けた、『交換条件』での行為を思い出した。 (今の、くすぐったいかな)  ちらりと恭隆の方を見れば、悶絶するように頬を染め、ユーヤの顔を、熱を持った目で見つめていた。先ほどまで苦悶の吐息を漏らしていた男とは思えない、ひどく緩んだ顔だ。 (……いつもの、ヤスタカさんだ)  ユーヤに向ける恭隆の視線はいつも優しく、時に熱を帯びる。疲れきった顔ではない、見覚えのある顔つきに戻っていることに、安堵と、先ほどの不快感とは違う、熱がユーヤの心を支配する。 (今度は、ちゃんと……僕が、最後まで)  恭隆の肩から流れる血は、ユーヤにすべて吸い尽くされ、ユーヤ自身が止めるまで吸血行為は続いた。 腹を満たし終えたユーヤの口元は赤く、その白い肌にはよく映える。血を荒々しく拭い、ハンカチで刺し跡を抑える。改めて恭隆の顔を見れば、恭隆はニコニコと笑みを浮かべユーヤを見ていた。 「元気になりましたか?」  本来吸血行為は、人間側に負担が大きい行為だ。だからこそ、人間側に負荷がかからぬよう、吸血鬼側の配慮が必要になる。欲望のままに行っていい行為ではない。 「……うん、元気になったよ。なんだか、いつものユーヤに戻ったなって」 「僕も、いつものヤスタカさんに戻ったって、そう思いました。やっぱり、ヤスタカさんが元気じゃないと、血もおいしくないです」 「体調にも左右されるよな……。まぁ、ちょっと今日のユーヤは荒々しいというか……色っぽいというか」 「いろっぽい?」  ユーヤが首を傾げ恭隆を上目遣いで見るも、恭隆は視線をそらし、不自然なほどに瞬きをした。そして、台所にいる兄弟たちに声を掛けようと立ちあがり、歩き出した。 「……元気なら、いいんですけどね。なんか……またはぐらかされました」  頬を膨らませながらも、ユーヤは台所に人影を見てようやっと客人がいたことに気づいた。恭隆が急かしてこなかったから、気づくのが遅れたのだ。しかし、だからと言ってユーヤの疑問に答えないのは腑に落ちなかった。  ましてや、ユーヤは昨日の晩も、祖父との関係を問いただそうとした田崎にはぐらかされたばかりだったのだ。  台所に向かう前、ユーヤに背を向けた恭隆は、ひどく波打つような鼓動を感じていた。昨晩、自身を襲ったのは吸血鬼で、今こうして身を預け、血を吸わせたのも、人が違えど吸血鬼だ。 (怖くない、わけじゃない)  吸いはじめの一瞬、ユーヤが恐ろしく思え、声が漏れてしまった。昨晩の荒川のように、ユーヤもまた飢えていたのだから、欲を満たそうとがっつくのは仕方がない。 (……俺、軽く見ていたのかもな)  ユーヤの外見に、騙されていたというと聞こえが悪いだろうが、油断していたのは間違いない。ユーヤ自身の性格にも起因するところだが、吸血鬼は人間とは違うものだと、改めて感じさせた。 (震えていなかっただろうか……)  ドアに伸ばした手を、じっと見つめる。『食事』をしているユーヤの背を抱くように回そうとした手は、寸でのところで止めてしまった。 (この先、大丈夫かな……)  抱いてしまった不安は、簡単に拭うことは出来ないだろう。ユーヤに悟られないように、うまくはぐらかしたと思う。 (色っぽさは、変わらないけれど……)  恭隆の見方が変わっただけで、ユーヤは何も変わらない。そう恭隆は思っていた。

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