台所からはすでにいい香りがしてきていた。恭隆が顔を出せば、「座っていろ、もうすぐだ」と正明の声がする。 「ユーヤが起きてきたから、伝えようと思って」 　恭隆の後を追ってきたユーヤの声が、後ろから聞こえる。 「おはよう、ございます」 「ああ、おはよう。マサ、ユーヤくんの分もよそってあげて。今日の朝ごはんはロールパンだよ」 　オーブントースターで温められたロールパンには、レーズンやマーガリンが入っている。スクランブルエッグとボイルされたウインナーには、ケチャップが添えられていた。サラダは好みでドレッシングがかけられるように準備されており、極めつけのデザートはヨーグルトだ。カットフルーツを入れて食べれば、噛み応えも相まって腹は膨れるだろう。 （ユーヤ、お腹入るかな……） 　先ほどまで、加減はされていたが、ユーヤは間違いなくたらふく血を吸っていた。恭隆が心配してユーヤの方を向くが、本人は至って純粋に、朝食を楽しみにしているようだった。 「……大食い？」 「なにがですか？」 　またも首を傾げ、ユーヤはきょとんとしている。別腹と言い張るには少し、いやかなりよく食べる方なのだと、恭隆は一人納得していた。 四人分の皿をお盆に載せて持つ克彦が、台所から顔を出す。後ろにはサラダなどのおかずを持った正明も待っていた。 「いっぱい食べることはいいことだよ。さぁ、リビングに行こうか」 　二人の仲睦まじい様子に、克彦は柔らかな笑みを浮かべていた。 　リビングテーブルに料理が並べられていけば、恭隆はふと思うところがあった。ほんの一週間前、ユーヤが来る前は兄弟たちがそろってくることは少なかった。今日の来訪は致し方がないものだとは認識しているが、とはいえ頻繁に訪れることは無い。休日は一人寂しく、適当に焼いたパンとサラダを食べ、あとはサプリメントなどで補っていた時とはわけが違う。 （いい傾向かもしれないな） 　荒川と話していた身体づくりのことを思い出し、レーズンのロールパンを一口かじる。 （……荒川さんとの約束、先方に連絡せず行っていいものか悩むな。……とはいうものの、なんて始めればいいのか分からないし） 　はたから見れば、難しい顔をしながら黙々とパンにかじりついているように見えている。三人に凝視されていることに気づくことなく、恭隆は次の一個を食べ始める。 （それこそ事情に詳しそうな田崎くんに取り持ってもらうか。いや、田崎くんも忙しいかもしれないし、俺が頼まれたことに彼を巻き込むわけにはいかないか……） 　一口、また一口と、恭隆の胃袋に収められていくパンは、いつしか空になった。無意識に伸ばした先にパンがないことに気づき、ようやっと周りの視線に気づくことができた。 「……あれ？」 「恭隆、もっとバランスよく食べろ。俺たちの分まで食べるな」 「……ごめん」 「考え事も結構だが、それで食べ過ぎては腹を壊すぞ」 　正明は言い終わると、ヨーグルトを掬い口の中へ流していく。すでに皆、主食のパンが少なくなり、恭隆が全部食べてしまうだろうと見切りをつけ、デザートまでいっているようだった。 「ヤスは少し考え過ぎちゃうよね。まぁ、今は自分のことを考えな。傷はまだ癒えてないし。……僕らは昼前には帰るけれど、ユーヤくんに心配かけさせちゃだめだよ」 「……ああ、分かった」 　よそってもらっていたサラダを口に含み、食感をかみしめる。恭隆の食べっぷりを見つめる三人の目は、どこか暖かかった。 　恭隆を含め全員が食べ終わり、リビングが片付いた頃。正明が窓越しに外を見つめ、例の石碑のある公園の方を見ていた。 「あの丘の公園、昔よく遊びにいったな」 　正明の言葉に、克彦も恭隆もその様子を見ながら、頷いた。 「行ったねぇ。あの頃はお爺さんが会長になる前だっけ。……懐かしいなぁ」 　まだ祖父母がこの家に住んでいた頃、幼い三人兄弟は遊びに来ては公園で駆けまわっていたことを思いだしていた。そして、その時に、石碑に書かれた鬼の伝説を聞かされていたような記憶が、先日思い出されたばかりだ。 「そうだ、二人とも覚えているか？ あの公園に石碑があって、その……鬼の話」 「もちろん、覚えている」 「そうそう。山にいた鬼と、商家の息子の話でしょ？……あれね、うちの話なんだって」 「……え？」 　思いがけない言葉に、恭隆は短く漏らす。思わずユーヤも、尖りのない丸い耳を立てる。恭隆もその様子に気づき、詳しく聞かせてほしいとねだった。 「僕も詳しくは聞けていないんだ。でも、あの商家の息子って、うちの先祖なんだって。体が弱くて療養してた、四男坊。近くには商家の取りまとめと警備を兼ねた役職をしていた、三男が住んでいたんだって。僕が聞いたのはそこまでで、鬼がいたのか、どんな鬼だったのかは、分からない」 　恭隆は内心残念に思ったが、それ以上に顔を俯かせていたのはユーヤだった。 「うちに記録は残ってないのか」 「あると思うんだけど……鬼に会いましたなんて、公式の記録には残らないしね。当時の日記とかあればと思うけど、私用で使える紙は当時そうなかっただろう」 　仕事で使うならまだしも、紙はまだ多く出回るものではなかった。克彦の言葉はもっともだが、正明は腕を組み、未だ納得のいっていない表情を浮かべていた。 「正明、気になるの？」 「……俺は少し、幽霊やらなんやらが見えるだろう。それと関係しているのではないかと思っただけだ」 「そういえば……昔から見えやすいって言ってたな」 　正明は幼いころから、他の兄弟と比べ、幽霊が見えやすい体質だった。除霊などは専門外だが、いいものか悪いものかくらいの区別は分かるようで、近くの寺に相談するよう促したこともあった。 （この前ユーヤが霧化したとき、気づかれなくてよかった……！） 　同じことをユーヤも思ったのだろう、恭隆の方を向き、その目は丸くなっていた。 「うーん、それもそうだね。何か、関係があるのかも。でも、正明だけなんだよねぇ」 　不思議なこともあるものだと、克彦はそれ以上の言及はしなかった。正明も同様に、ここで言っても仕方ないと言わんばかりに、口をつぐんだ。 「……みなさん、幽霊とか、怪物とか、信じているんですね」 　口を開いたのは、己自身が吸血鬼であるユーヤだ。もちろん、克彦と正明が知るところではないが、二人の考え方は、ユーヤにとっては安心できるものだろう。 「俺は少し見える方だからな。対処などはできないが、まぁいるだろうなとは思う」 「そんなマサを見てたからね。……ヤスだってそうでしょ？」 「あ、ああ……。そうだな」 （だからヤスタカさん、あまり僕のこと驚かなかったのかな？） 　出会った時のことを思い出し、ユーヤは一人納得した。恭隆自身が出会ったことがないとはいえ、ある程度の知識があってもおかしくなかったのかもしれない。 （……そうじゃなくても、今いっしょに居られるのは嬉しいけれど） 　胸をなでおろし、ユーヤは嬉しそうに「ありがとうございます」と礼を言った。