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8-2 前兆の日々、僕らの不安事項

「……あの、ヤスタカさん」 「ん? あ、そうだ『食事』。兄さんも帰ったし、そろそろかな」 「あの、その前に一つ、いいですか?」  恭隆の服の裾を掴めば、ユーヤはくいくいと引っ張り、リビングへ誘導する。急かさずともいいと恭隆は言うが、玄関先だと少し恥ずかしくなってしまう。  リビングに戻り、二人は並んでソファーに座る。いつもはどちらかがラウンジチェアへ座るが、二人で話すとなるとテーブルを一つ挟んでしまい距離が生まれてしまう。 「……どうしたんだ、ユーヤ。やっぱり何かあったのか?」 「あの、ヤスタカさんは『交換条件』のこと、忘れてはいませんよね?」 「え……うん、もちろん忘れてはいないよ」  恭隆は首を傾げながら、ユーヤに向き合いちゃんと答えてくれる。ユーヤから話を振るのは本意ではなかったが、このままずっとユーヤの欲を満たすだけでは忍びない。意を決して、ユーヤは問いかけた。 「最近、ヤスタカさんは僕の食事の後、何も言ってこないですよね。……どうしてですか?」 「あ、ああ……なるほど」  顎に手をあて、恭隆が考えるしぐさをしていると、ユーヤは少し不安げに恭隆を見つめる。 「何か、至らない点がありましたか?」  一つ一つの言葉が、どことなく震えている。それほどまでに追い詰めてしまっていたのだと、恭隆が気づけば慌てふためくように弁明する。 「違うんだ、ユーヤが悪いわけじゃなくて。最近、前とは違う忙しさとか、そもそもユーヤといっしょに居られるだけで満足してる自分がいるんだ」  荒川の一件のように、体調を崩すほどのものではないが、来シーズンの施策や年末作業の仕事が重なっていることは事実で、ユーヤも仕事の様子を眺める時間が多かった。その間、恭隆はユーヤを隣のソファーに座らせ、頭を撫でたり本を読んでいてもらったりと、いっしょに居る時間が多くなっていた。 「ユーヤの食欲と違って、俺のはセーブができる。だからといって、ユーヤの魅力がなくなったわけじゃないんだ。……まぁ、がっついてると思われたくない、というのもあるにはあるけれど」 「でも、それでは『交換条件』ではなくなってしまいます」 「……確かに、ユーヤの願いだけが叶っている現状はよくないな。相応の対価を払うことは大事だけれど」  ユーヤの言い分ももっともであり、恭隆も理解は出来た。だからといえ気分でないときにお願いをするのも双方にとってあまり良くないと恭隆は考えた。 「そうだ、今度の火曜の出社の時、ユーヤも一緒に来てくれないかな。その日は時差出勤で通勤ラッシュにも重ならないし、商談が入っているわけじゃないから」 「……職場で、ですか?」 「ああいやそうじゃない!それは出来ない!」  恭隆の必死の訴えに、ユーヤは目を丸くする。環境を変えることが望みなのかと思ったのだが、どうやら違うようだ。 「『交換条件』の代わりに、俺のわがままを聞いてほしいと思ったんだ。会社のみんなにユーヤを紹介したいし、人間の社会生活を実際に見てみるいい機会になると思うんだ」  ユーヤはまだ修行中の身で、あまり人間社会について詳しくはないだろう。本来なら学校などがユーヤの年齢には合っていると思うのだが、流石にその年の知り合いは無く、恭隆の会社であれば、ユーヤが来ても歓迎されるだろう。 (それに、社内で拘束プレイなんかしてみろ。田崎くんになんていわれるか分かったもんじゃない)  そもそも公共の場で行うものではないが、吸血鬼のこと――ひいてはユーヤのことも気にかけている様子を見せ、自身の祖先と今なお関わりのある田崎に知られることは避けておきたい。 (彼の過去からも、俺の趣味は恐らく相性が悪い)  異国から売り飛ばされそうになったと、植原の家からの帰り道に語っていた田崎にとって、拘束という恭隆の趣味は苦々しい過去を思い出させることになるだろう。  恭隆は改めてユーヤの方を見れば、未だ納得していないように頬を膨れさせながらも、最後には頷き承諾した。 「……分かりました。ヤスタカさんがそれでよければ」 「うん、ありがとう、ユーヤ」  体への負担を考えれば対等ではないと、ユーヤは思った。しかし、恭隆が満足する形であるならば、了承しないわけにはいかなかった。  話がまとまったところで、恭隆はおもむろにシャツのボタンを外し、重ね着していたカーディガンと一緒にはだけさせ、肩を出した。そろそろ『食事』にしようと、誘っているように見える。 「……てっきり僕は、この前のが下手だったからだと」 「この前って、二週間前の? 下手だなんて思っていないし、折を見てもう一回してもらおうと思っていたくらいだよ。……でも、ちゃんと説明しておけばよかったね」  申し訳なさそうに恭隆が言うと、ユーヤはゆっくりと首を横に振る。ユーヤの早とちりもあったのだが、不安を口にして正解だったとも思った。 (これで、美味しいご飯が飲める)  胸の引っ掛かりが取れ、ひさびさに『食事』に集中できると、ユーヤは隣に座る恭隆の方へ向き直る。両肩に手をかけ、露出された右肩をじっと見つめる。軽く親指で場所を確認すれば、ユーヤ大きく口を開ける。健康的な生活を続けているからか血色はすこぶるよく、思わず喉が鳴る。恭隆の視線は下に向いているが、嫌がっている様子はなさそうだ。 「……いただきます」  二本の牙を立て、ぷすりと恭隆の皮膚を刺す。じわりとにじみ出てくる血液を、ユーヤは口づけるように吸い上げる。苦くも味わい深い恭隆の血の味は、吸えば吸うほどに美味しさを増していき、味わうように口の中で転がしていく。首筋から流れ、鎖骨へと赤い筋がはしるように落ちる血液を、小さい舌で這うように舐めあげるしぐさを見れば、恭隆は先ほども話題に上がった、先日の口淫を彷彿とさせ、にやける口元を左腕で隠した。恭隆の動きに合わせ、左肩にかかっていたユーヤの右手は、自然と胸元にずれていく。刺した首筋に口を戻せば、じゅっと激しく音を立てながら血液を吸い続ける 「ん……ふっ……」。  ユーヤの細い首が、恭隆の血を飲むたびに跳ねるのを、まんざらでもない気持ちで恭隆は見つめている。ユーヤも晴れ晴れとした気持ちで飲み続け、頬が緩んでいるのが、なおの事恭隆を満足させていた。  喉が潤ったのだろう、首筋から口が離れていき、ユーヤはテーブルの上にあるティッシュで恭隆の首元を抑える。次第に血の流れは止まり、二つの跡は残っているが恭隆はシャツを着なおし始めた。 「……ごちそうさまでした」 「満足そうで何より。……俺もこの日常に慣れてきたなぁ」  ユーヤと出会い、三週間が経とうとしていた。一カ月に満たないことに驚きを隠せないが、恭隆にとって非常に長く、密度のある一カ月になることは間違いなかった。 「僕はまだまだ、慣れなきゃいけないことが多いです」  口元に付いた恭隆の血を拭いながら、ユーヤは小さく微笑んだ。恭隆も穏やかな笑みを浮かべ、ユーヤの頭を撫でる。恭隆が抱える吸血行為への恐怖心は、あれから幾度か回数を重ねることにより、少しずつ薄れていっているが、僅かながらにくすぶっている部分もある。 (こればかりは、慣れていくしかないかな)  頭を撫でられ上機嫌のユーヤは、恭隆の複雑な思いには気づかず、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

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