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8-3 前兆の日々、いざ本条製菓へ!
約束通り、ユーヤを連れて出社した火曜日。社長が率先して行うことで広めようと勧めている時差出勤の関係で、通勤ラッシュには出くわさずにすんだ。ユーヤもはじめての電車を楽しみながら、恭隆の会社を訪れた。荒川の件があり、建物自体に訪れるのは二回目だが、ゆっくりと見学をするのはもちろん初めてだ。壊れてしまった社長室の備品も取り替えられ、新品のものが置かれていると、恭隆から聞いていた。
改めてオフィスを見ると、四階建てのビルには恭隆の会社しか入っておらず、中小とはいえ会社の規模が比較的大きいことがうかがえる。清潔感のある白やベージュの壁に、大きな天窓が陽の光を多く取り入れられるよう設計されている。ユーヤにとってみれば、あまり好ましくないのは間違いない。
自動ドアを抜ければ、仕事中ゆえに静かな空間が広がっている。受付の女性に挨拶をする恭隆を見て、別人のようだとユーヤは思った。穏やかな表情と声色は変わらないが。幾分か落ち着いて見える。プライベートと仕事だと変わる人が多いというのは、テレビでも言っていた。
受付が挨拶を返し、恭隆との会話を進めると、驚いたように受付の机から乗り上げるようにして下を覗き込み、ユーヤの方を見る。ユーヤもじっと見返すと、途端に受付の表情が明るくなり、椅子を降りてユーヤのところへ駆け寄ってきた。
「わー! 君が噂のユーヤくんだね! はじめましてー!」
「は、はじめまして……」
勢いに負け、ユーヤは思わずたじろぐも受付はものともせず、机に戻りマイクに向かって話しかける。恭隆が止めようとするも、受付はにこりと笑うだけだった。
『本条製菓全社員におしらせします。ただいま受付にて、本条社長と、社長が預かっているユーヤくんがご出勤されました。社員はお出迎えの準備をお願いします』
「いやいやどうしてそうなった!?」
恭隆の戸惑いももっともだが、受付はさも当然のように「待ってましたので」と笑みを返す。
「いつか社長が連れてくれると思っていたので、もう待ちに待ったって感じです!」
「心構えが潔いな!」
頭を抱え、うちの社員は団結力がいいんだかと恭隆がうめいていれば、様々なところから顔をのぞかせたり、ざわめく声がしたりと一気に騒々しくなった。
「社長の近くにいる子がそうですよね!」
「すごいかわいい!」
「大人になるとイケメンになるだろうなぁ」
口々に聞こえてくる声に、ユーヤは戸惑い恭隆のスーツの裾を握る。思わず陰に隠れようとするが、階段を駆け下りる音とともに現れた人物を見れば、緊張は少し和らいだ。
「社長、ユーヤくん、おはようございます!」
「元気そうで何よりだよ、田崎くん」
「おはようございます」
いつも社内で見せている屈託のない笑顔と自身への呼び方に、一瞬だけユーヤは眉間にしわを寄せる。
(様付けじゃない、ヤスタカさんの前では言わないんだな)
口をへの字に曲げるユーヤを、恭隆は不思議そうに見る。
「どうかしたのか、ユーヤ。田崎くんだぞ」
「そうですよー?」
「なんでもありません」
プライベートでもユーヤと会っていることを、田崎が受付に伝えれば羨ましいと受付は悔しがっていた。腰を落ち着かせて話そうと、ユーヤを一度社長室へ連れていくことにした。当然のように、田崎もついていくつもりだったが、仕事があるのではと恭隆に問われ、肩を落とす。
「わかってますよ、片づけたら遊びに行きますね!」
営業部へと戻る田崎を見送り、恭隆は最上階までユーヤを案内する。四階まで上がり、社長室まで向かう廊下で、秘書の安岡が出迎えに来ていた。
「安岡さん、おはよう」
「おはようございます、社長。ご一緒されるのなら先にご連絡いただければ迎えに参りましたのに」
「昨日安岡さん休みだったから、先に言えなくて……」
安岡はいつもと変わらず、冷静な対応だと恭隆は感心していた。他の社員たちのような歓迎も嬉しいが、安岡のように落ち着いて話すことができるのは、恭隆も緊張せずに済む。先程とは違う反応に、ユーヤは少し戸惑っているようだった。安岡がユーヤに気付けば、めったに見せない柔らかな笑みを浮かべ、ユーヤに視線を合わせようとしゃがんだ。
「失礼しました、私、本条社長の秘書を勤めております安岡と申します。以後よろしくお願いいたします」
「ユーヤです。はい、よろしくお願いします」
ユーヤが頭を下げると、安岡も合わせてお辞儀をする。誰に対しても変わらない、丁寧な対応だ。
「礼儀正しい子ですね。……お茶菓子を持っていきますので、待っててくださいね」
そう言い残し、安岡は秘書室へと向かい歩き始める。ユーヤは少し緊張していたようだが、次第に顔がほころんでいく。
「みなさん、急だったのに優しいですね」
「うちは急な子連れ出勤にも対応できるようにしてるから、わりと柔軟なほうなんだ」
保育士などは常駐していないが、子供と一緒に仕事ができるよう広いスペースを設けたフロアもあり、また手がすいている社員が子供の相手をすることもある。社外からは反対の声もあったが、時勢もあり評価されている面でもあるようだ。
「ヤスタカさん、立派な社長さんなんですね」
「まだまだ甘いよ」
新品のソファーに腰掛けていると、安岡が茶菓子とジュースを持って来た。その時、ユーヤを一目見ようと幾人かの社員がドアからのぞき込んでいるのが視界に入る。口々に「かわいい」と感嘆の声を漏らしていく社員に、恭隆も、廊下から一緒に来ていたであろう安岡も閉口する。ユーヤは軽く頭を下げ、礼をする。その愛らしいしぐさにまた胸を打たれ、部署へと戻っていく。
「クリスマス商戦の中間報告はどうしたんだ……」
「それなら今日の午後を締め切りとしています。……少し遅れそうですね」
ため息交じりの安岡の声色に、恭隆は苦笑いしかできない。クリスマス当日までの売れ行きを図る重要な報告だが、各部署とも年末に向け忙しいのは理解しているが少し浮足立っているのかもしれない。
「それならユーヤの社会見学は午後に回そう。……それでいいかな、ユーヤ」
「僕は大丈夫ですが……その、迷惑になっていませんか?」
「急に連れてきた俺に非があることで、ユーヤは気にしなくていいよ。……安岡さんもありがとう」
「いえ、私は仕事をしたまでですので。……失礼します。ユーヤくん、ゆっくりしていってね」
最後まで笑みを忘れずに接してきた安岡に好印象を覚えたのか、彼女に対してユーヤの緊張はほとんどなくなっていた。安岡が部屋から去ると同時に、恭隆はスーツの上着を脱ぎ始めた。
「さて、仕事仕事。ユーヤはそこでゆっくりしていてくれ。今日は来客の予定はないから。棚にある、製本されている本だったら、興味があれば見ても問題ないよ」
棚を見てみると、ファイルのほかにいくつかの本が並んでおり、経営学の本をはじめ様々なお菓子の本が並んでいる。ユーヤが読めそうな本を探していると、棚の下段に子供向けに書かれている本があった。一冊を手に取り、中身を見てみる。読めそうな漢字や絵が多く、同じシリーズのものを抱え、ソファーへと戻った。その様子を見て恭隆も安心したのか、自身の仕事へと意識を向け始めた。社長室にはパソコンのキーボードを打つ音と、時折ページをめくる音だけがしている。
(……この部屋は、こんなに静かな場所なんだ)
二週間ほど前にユーヤが来た時には荒れてしまい、静けさとは無縁の部屋だった。その一因が自分だったとはいえ、ユーヤは不思議に思えた。
(これが、本来の姿なんだろうな)
静かで、恭隆が一人で過ごす部屋。ユーヤが来る前は自宅でも一人だっただろうことを考えれば、恭隆も一人になりたいと思う時があるのではないだろうかと、ユーヤは考えた。
「……ヤスタカさん、お話しても大丈夫ですか?」
「ん? どうしたんだ、ユーヤ」
「その、僕違う部屋に行っていたほうがいいですか? 一人のほうが、いいのかなって」
恭隆は首を傾げる。
「そんなことはないよ。十分集中できているし」
「そうですか……」
いつもと違う環境は過ごしにくいと思ったユーヤだったが、さも当然のように話す恭隆を前にして、杞憂だったようだ。
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