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8-6 前兆の日々、助け船
「本条さん、どこで油を売っているのですか」
少し強めの口調に、低い落ち着いた声色で名前を呼ばれ恭隆は声のした後方を向く。深谷もつられ視線をずらせば、落ち着いた深い茶色のコートを着た、グレイヘアの男が立っていた。
「植原社長……?」
深い皺も見えた男――荒川の上司にしてデザイン会社の社長である植原が、ユーヤを連れてこちらを見ていた。その表情は険しく、以前見たような温厚そうな彼の面影は一切ない。
(オフィスは離れていたはず……というか、なんでそんな怒っていらっしゃるんだ?)
彼と約束をしていた覚えはなく、恭隆は思わず焦り始める。落ち着こうと、植原のそばにいるユーヤを見ると、植原のコートの裾を握り、恭隆のほうをじっと見ていた。
恭隆と深谷が黙っていると、植原が深いため息をつき話し始める。
「暗くなるのが早まっているのです。未成年を連れているなら、一人にするなんて危ないではないですか」
植原に正論を言われ、恭隆は思わず委縮する。
「す、すみません……」
深谷が申し訳なさそうに、間に入って説明をする。
「失礼いたしました。こちらの方に取材をしていまして……」
「取材……? この子が待っていると知って? 何分ほど?」
「いや、こんな時間がたっているとは思わず……」
「未成年の子がいると知っていて、時間を忘れ取材するとは。仕事熱心なのはいいですが、受ける側への配慮を怠るのは感心しませんね」
「し、失礼いたしました……」
「まったく。この子は大事な預かり子なのです。……しっかりしてください、本条さん」
植原は深谷に一礼すると、恭隆の手を引きロータリーのほうへと足早に進んでいく。深谷が追ってくることはなく、ほかのサラリーマンに声掛けをし始めている姿が見えた。
恭隆は立ち止った植原の顔を見ようとのぞき込もうとするが、先に植原が恭隆のほうを見る。その顔は申し訳なさそうに眉を寄せ、先ほどまでとは別人のようだった。
「すいません、本条さん。あんな失礼なことを言ってしまって……!」
「え、いや……植原さんの言うことは当然だったと思いますけれど」
植原の態度は恭隆の知る彼そのもので、怒らせていたかと思えばそうでもなかったのだろうか。
「一人でベンチに座っているこの子を見つけて、危ないなって思ったんです。……いや、私のような男が話しかけたほうが危ないと言われそうですが。話を聞いてみると本条さんのお知り合いと聞いたのです。ずっと取材で話し込んでいると聞いて、待たせるのもよくないし、本条さん、時計のほうをちらりと見ていたので、だいぶ長話になっているのだと思ったものですから」
前半はともかく、後半はその通りだと、恭隆は内心激しくうなずいてしまった。話を切り上げることができず困っていたところに助け船が来たようなものだったため、感謝の気持ちのほうが大きい。
「お礼を言いたいところです。ありがとうございました」
「いえ……。急に話しかけてごめんね、ユーヤくん」
ユーヤは首を横に振り、笑って見せた。その笑顔に少しだけぎこちなさを感じ、ユーヤに尋ねる。
「どうした?」
「……僕、記憶力はいいほうです。ウエハラさんは、この前会いに行った方ですよね」
「そう、荒川さんの……ああ、なるほど」
恭隆は納得し、口元が引きつる。荒川のことをまだ許せず、二週間前に植原のもとへ行こうとした恭隆を心配していたユーヤが、警戒心を解くわけがなかった。
「本条さんの知り合いと聞いたときに、名刺を見せたのです。私の名前を知っているようだったから、もしかして本条さんが、丈くんのことで私の名前も出したのかなと思ったら、当たっていたのですね」
植原は変わらず、荒川のことを話すときは柔らかな笑みをたたえていた。ユーヤは恭隆の前に、立ちふさがっている形だ。
「ユーヤ、植原さんは悪い人じゃないから……」
「はは、知らない人には緊張や警戒をしてしまうものです。……まして、丈くんの知り合いとなれば、なおさら」
「植原さん……?」
「あの後、ちゃんと聞いておこうと思って田崎さんに聞いたのです。あなたたちと丈くんの間に、何があったのかを。知らないで、安請け合いと思われるようなことをしたくなかったので」
恭隆たちが訪問した後に、田崎から聞いたことは改めて衝撃を受けることになっただろう。
「すべてを聞いたうえで、私はまだ、丈くんを待つと決めました。……それを、本条さんにも言おうと思って。ご出勤後に夕食を食べながらと思って、ここまで来てしまったのです」
連絡を入れずにすみません、植原は頭を下げるがそこまですることではないと、恭隆は慌てて頭を上げてもらえるよう頼んだ。ようやっと植原は体を起こし、恭隆はほっと一息ついた。
「……そういえば、先ほどの剣幕は驚きました。植原さんがあんなに強気になるなんて」
「はは、うまくいってよかったです。あれはただ、丈くんの真似をしただけですよ」
「……荒川さんの。なる、ほど……?」
戸惑いを見せつつ、普段の植原がとる行動ではないことを知り、恭隆は安心した。改めて礼を言えばユーヤもつられお辞儀をした。大したことはしていないと植原は笑いつつ、その場を後にした。恭隆はユーヤの手を握り、笑いかける。
「帰ろうか」
「……はい!」
帰宅ラッシュが始まり、電車の中は窮屈になるだろう。恭隆はユーヤに覚悟を決めてもらい、数本遅らせつつ、ユーヤが座れる場所を何とか確保した。恭隆は毎日のことで慣れてはいるが、ユーヤは車両いっぱいに人がいることに驚いているようだった。目を丸くしたユーヤは、家の最寄り駅に着くころにはくたくたに疲れ、降り立ったころにはうんと背を伸ばした。
「窮屈だったろ」
「ええ……まさかあんな大変なことを毎日だとは思ってみませんでした。すごい大変なことをされていたんですね」
「まぁ、そうかな……。でも、少し慣れたのもあるかな。社会人になってからはずっとだし」
恭隆の話を聞いてもなお、ユーヤはすごいと言っていた。それほどまでに衝撃的だったのだろうと恭隆は思った。帰りのバスは比較的空いていたため、
「電車もこのくらいならいいのに」とユーヤは小さく漏らした。
翌日からは、恭隆を見送るユーヤの目が険しくなり、「ラッシュには気をつけてください」という文言が追加された。テレビでは誘拐事件と傷害事件のことが取りざたされている中で、平穏な見送りだと、恭隆は礼を言いつつほほえましく思った。
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