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8-7 前兆の日、その終わり。
ユーヤの社会見学から一週間がたった頃。季節はすでに冬へと変わる12月。夕食を取った後に風呂から上がったユーヤは、新聞を読んでいた恭隆に話しかける。湯上り姿のユーヤも見慣れてきたが、今日はまだパジャマに着替えていなかった。
「どこか出かけるのか?」
「いつも夜に起きちゃうので、今日はお散歩をしようかと……」
夜の散歩は危ないと恭隆が諫めるが、ユーヤがにこりと笑うとその背からは、黒い蝙蝠のような羽が生えた。
「飛びます」
「そんなこともできるのか」
霧になることは見たことがあったが、羽が生えることは知らされていなかった。
「庭に落ちちゃったときも、飛んでたんですよ。『修行』に出る前はよく夜を散歩していました。いつか、恭隆さんと一緒に飛びますね!」
ユーヤの力では、まだ恭隆を抱きかかえることは不可能だ。だが、恭隆はその時を心待ちにすることにした。
(ずっと一緒にいられる、ということだもんな)
ほほが緩み、恭隆は上機嫌に「出かけてもいいよ」と言った。見つからないようにすることを条件に、窓を開けておくとユーヤに告げる。
「ありがとうございます! ヤスタカさんが寝た後に行くので、それまではリビングでお供します」
そういうと、ユーヤは隣で本を読み始めた。風呂上りの体はまだ暖かく、湯たんぽのように恭隆を心の中から温める。思わずユーヤのほうに重心をかければ、倒れないようにユーヤが必死になって支えた。
「わざとやっていますよね!?」
「うん、わざと」
「ヤスタカさんのいじわる!」
本で顔を隠し、拗ねるユーヤの顔を拝めないのは残念だったが、その尖った耳まで真っ赤になっていたのを見れば、恭隆はまたうれしくなった。
上機嫌の恭隆が寝静まったのは、日付を超えた頃合いだった。明日も仕事だと言っていたが、ユーヤと話すのが楽しいと言われると、寝かせるのは難しかった。ユーヤは恭隆を起こさぬよう、リビングへ静かに歩く。スマートフォンをポケットに入れ、祖父からもらったコートにそでを通す。やはりまだ大きかったが、外は寒く、今日一日着てみようと決心したのだ。
窓を静かに開け、羽を広げる。サッシを乗り越え、静かに窓を閉めると同時に、手の一部を霧化させ、鍵を閉めた。大きく羽をはためかせれば、一気に屋根を越える高さにまで飛び上がる。同時に、腹の虫が鳴ってしまった。周期的に、そろそろ『食事』の頃合いだと、ユーヤの口元に笑みが浮かぶ。
(今度の『交換条件』はなにかな)
最近の恭隆は、最初のころに行っていたプレイに関するものではなく、ユーヤと出かけることを求めることが多くなっていた。大体はショッピングモールや駅ビルへの買い物だったが、夕食を外で食べることもあり、恭隆だけではなくユーヤも楽しさを覚えていた。
(拘束、も、僕は悪くないと思っているけれど。一番はヤスタカさんの望むことだから)
はじめこそ躊躇いもあったが、恭隆自身について知れば知るほど、それだけにとどまることなく、恭隆と共に過ごせることが第一だとユーヤは考えるようになっていた、
(でも、ヤスタカさんはどうして、拘束が好きになったんだろう。今度聞いてみようかな)
恭隆は『受け入れがたい趣味』だと思っていることを、ユーヤは知っていた。初めに『交換条件』を提案した時も、拒絶されることを前提で言っていたことを思い出す。
(好きなことなのに、どうしてそんな後ろ向きだったのかな……)
ユーヤは考え事をしながらも、自然と恭隆の会社のほうに向かっていることに気づけば思わず笑みがこぼれる。
(前は、あれだけ焦ったのに)
荒川の一件から、そろそろ一か月になる。その時は霧となって飛んでいたが、余力のある今は羽を使って飛ぶことができた。何物にも急かされることなく、自由に飛べることが楽しいことだと、ユーヤは改めて感じていた。
「……ん?」
ちょうど恭隆の会社の最寄り駅が見えたあたりで、静かだった夜の街にわずかな騒がしさを感じた。ユーヤが下を見れば繁華街の光がぽつぽつと見え、その近くの暗がりに、ぽつんと赤い光が見える。赤い光は点滅し、ゆっくりと動いている。こうこうと輝く光の色とは違う異質の赤に、ユーヤは違和感を覚えた。近くまで下りれば、その赤い光は車のテールランプだった。車の進行方向は繁華街とは真逆の、暗い路地。その先には、速足で歩く女性の姿が見える。
(なんだろう……あの人を追っているのかな)
ユーヤは少し先の路地で地面に降り、その姿を探す。歩いてくるだろう方角から、カンカンと靴の音が響く。その音は歩くには早く、ユーヤが目を凝らしてみると、先ほど見つけた女性が走ってくるのが見えた。その後方には最初に見えた車もあるが、ライトの光は小さく運転席までは見えない。
遠くからではあったが、女性の表情が恐怖にこわばっているようにユーヤには見えた。
(追ってるのは当たり、でも、追いつかせちゃいけないんだ!)
ユーヤはライトに当たらぬよう一度霧に姿を隠し、女性のすぐ後ろに迫っていた車の後方のガラスを蹴って割った。突然の破損に驚いたのだろう車は止まり、一度女性が振り向くも、追ってこないことに気づきその場から走り去った。
運転手と助手席にいた人間が車から降り、ガラスの様子を見に来る。ユーヤは、霧になりつつも、置いてあった飲食店用のごみ箱に隠れ、様子をうかがった。何か言い争いをしている二人は両方とも男性で、追っていた女性がいなくなっていることに気づき、諦めたように車に乗り込もうとしていた。
しかし、ユーヤが隠れているゴミ箱に近づいてくる。気づかれるわけがないと、ユーヤはそのまま隠れていたが、近づいてきた男は憂さ晴らしのようにそのゴミ箱を蹴り上げた。浮き上がるゴミ箱はユーヤに当たり、飛んでいくと思っていた男が訝しげにゴミ箱の裏を見る。ぶつかった衝撃で、ユーヤの霧は晴れ、男たちの目の前に姿を見せてしまった。
「ガラス割ったのお前かァ!?」
「おい待て、そいつ……」
蹴り上げてきた男がユーヤに襲い掛かろうとしたが、後ろで見ていた男が制止する。話始めた男の隙をつき、ユーヤが走り去ろうとしたが、後方から男たちのものだろう走ってくる音がする。
(見られているうちは霧も羽も出せない……!攻撃はできない、また隠れるところを探さなきゃ!)
ユーヤは路地の奥まで走り、曲がり角でやり過ごそうとした矢先、その細腕を強く引っ張られ、男の一人に地面に押し倒される。
「いっ……!」
コンクリートに強く体を打ち、胸や肩が痛む。後ろ手に腕を捕まれ、身動きが取れない。わずかながらに反発し体をねじることが精いっぱいだった。
「この悪ガキが、ホントに社長のガキなのかよ」
「マジの子供じゃないらしいけど、さすがにこんな特徴的な髪の奴忘れないさ」
ユーヤは逃れようともがいていたが、男の言葉に動きを止める。男の顔を見れば、闇に慣れたユーヤの目には、恭隆にインタビューをしていた記者の男——深谷に似ているようだった。
「棚ぼたってことで、よろしく」
反論をしようとしたユーヤは、後頭部への強い衝撃に耐えることができず、そのまま意識を失った。男たちはそのまま、ぐったりと横たわるユーヤを軽々と抱え上げ車に乗せる。自分たちも乗り込み、その場を後にした。
現場にはもがいていた際に脱げた、ユーヤが着ていた紺青のコートだけが残されていた。
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