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9-1 誘拐事件、悪いことだけの知らせ
男二人組に襲われそうになったと、女性から警察に通報があったのはその十分後だった。近くの交番からの連絡を受け、警察の捜査が入る頃には路地裏は静かになっていた。現場に残された紺青のコートは、警察署預かりとなり、一報を受けた本条正明が実物を見たのは、通報があってから三時間後のことだった。同僚に頼み込みコートをよく見せてもらえば、わずかながらに持ち主の『感情』が、以前見たユーヤのものと合致していたことに言葉を失う。
「知り合いの、なのか」
同僚の言葉に静かにうなずけば、正明はふらつきながらも、廊下に出る。スマートフォンを取り出し、夜中と分かっていながら、恭隆に電話を掛けた。深夜にかかってくるとは思わず、恭隆は出なかった。しかしそのあと折り返しの電話があり、眠っていた恭隆の頭はすぐに冴える。
「この真夜中にユーヤくん一人で出歩かせていたのか!」
署内であることを忘れ、正明は声を荒げる。勝手に出ていったとは言わず、恭隆は素直に認めた。恭隆の家に来る以前から夜によく目が覚めると、散歩に出かけていたと言っていたと恭隆は話した。
「だとしても、どうして……!」
頭を抱え、正明はその場にしゃがみ込む。受話器の向こうにいる恭隆も、同じ気持ちだろう。
「……朝になったらそっちに行く。お前が考えなしに許可したわけではないと信じているからな」
一方的に電話を切り、正明はもう一度部屋に入り、コートを見る。付着物は特になく、血痕などは見られなかったことは幸いだ。
捜査員の一人が部屋に入り、通報してきた女性の事情聴取の内容を話してくれた。女性が追跡されていた最中、突然ガラスが割れる音が聞こえ、車が止まったのだという。その隙をついて走って逃げ、交番にたどり着いたようだ。
「……ガラスを割ったのは、このコートの持ち主なのか?」
同僚が捜査員に聞くも、それはわからないという。女性は追ってきた車以外に人影はなかったと証言している。正明はそれを聞き、まだ現場検証が続いていることを確認したうえで、現場へ向かうことにした。
繁華街の裏道は人通りが少ない。はじめこそ女性は表を歩いていたが、男たちに絡まれ、逃げ走った先が路地裏になったという。途中男たちは車に乗り換え、轢かれるギリギリを追って走っていたようだ。
(何か、手掛かりになりそうなものはないか……)
現場には転がっていた壊れたゴミ箱と、割れたガラスが散乱していた他には目立ったものはなかった。割れたガラスは車種特定のために回収され、念のためにとゴミ箱も回収された。すでにゴミ箱の管理者には連絡が行き、今日中には新しいものが届くという。
正明が現場を進んでいけば、捜査員たちが一か所に固まって地面を見ていた。正明が話しかければ、コートが落ちていた場所に、欠けた歯の一部が見つかったようだった。
「でもかなり尖っているんだよこれ」
正明が見れば、犬歯のようにも思えるがそれにしては鋭利な部分が長い。
「人間のっぽくないんだよな」
「馬鹿、ネットの与太話思い出すだろ」
ネットの与太話――犯人の吸血鬼説のことだ。捜査員たちは保管のために、歯を専用の袋に入れる。正明が受け取り、警察車両へもっていく中で、じっとその欠けた歯を見つめる。
(犯人の歯が欠けるきっかけはなんだ。それより、被害者のほうがあり得る。仮にこれが彼のものだとしたら……)
正明の中で、一つの仮説が立てられていく。恭隆とて、知り合いの子を真夜中に出歩かせるほど愚かな人間ではないとはわかっていた。
(何かしらの対抗策を取れる、と思っていたか)
欠けた歯は人間の犬歯にしては長く、ネットで流布している説を思い出させるほどのものだった。
(吸血鬼……人ではない者。誰もいなかった路地裏で、急に割れた車のガラス。最初の女性ではない、第三者が誘拐された事実……)
一件結びつかなさそうな事柄だが、正明は幼いころから『人ではないもの』を見ることができた。だからだろう、あり得ないと思われることを、結びつけてしまう。
(ユーヤくんが、吸血鬼だとしたら)
師走の冷たい風が、正明の背を冷たく通り過ぎていく。夜明けまでは、まだ時間があったがその時間が、正明にとっては長く感じた。
日が昇り、正明は真っ先に恭隆のもとへ車を走らせた。玄関を開ければ、すぐに恭隆も出てくる。電話の後からずっと起きていたのだろう、目にはうっすらと隈ができている。
「兄さん、俺……!」
「後悔も反省も後だ。先に聞かせてくれ恭隆。……ユーヤくんは、人間か」
恭隆にとって、突拍子もない質問に目を丸くする。本人がいない状態で、是とも非とも言えなかった。
「……ユーヤ、は」
「お前が夜中出歩かせた理由も、現場の状況も、彼が人間だとしたら信じられないんだ。……ヤス、俺はたとえユーヤくんが人間であろうとなかろうと、今更動ずることはない。……今は、彼を助けるための策を練りたい」
「…………」
恭隆が口を閉ざしていると、玄関のチャイムが鳴り響く。早朝に駆け込みで来るのは、急を要する者だろう。恭隆がインターホンを確認すれば、画面に田崎の姿が映っていた。
「……さすがに情報が早いな」
恭隆の口から出た言葉は、正明には苦々しく聞こえた。恭隆が玄関を開けると、眉を下げ困惑の表情を浮かべる田崎がそこにいた。
「社長、ユーヤくんがいなくなったってマジですか……!?」
恭隆が答える前に、正明が口を開く。
「ヤス、会社の人にまで連絡を入れたのか?」
正明の質問に恭隆は口をつぐみ、田崎が間に入っていく。焦りの表情を浮かべながらも、正明に頭を下げる。すぐに恭隆のほうへ向き詰め寄った。小さな声で二言三言会話をして、田崎は恭隆からゆっくり離れる。
「……そう、ですか。マジかぁ……」
田崎はしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。情報の仕入れ先はわからないが、どうやら恭隆の会社の人間にも、知れ渡っているようだ。報道には情報を流していないため、恭隆自身が教えたと考える方が懸命だろう。
「……社長の、お兄さん、ですよね?」
しゃがみ込んだまま、田崎は尋ねる。正明が名を明かせば、少し考えたようなそぶりを見せ、立ち上がり恭隆に話しかける。
「社長、俺のカンでしか言えないんですけど。……ユーヤくんのこと、言っていいと思います」
「だけど、本人がいないのに」
「その本人を助けるためなら! この人は動いてくれると思うんです。まぁ……ただ『似てる』ってだけなんですけどね」
「……似ている?」
正明の小さな疑問には答える様子がなく、恭隆は正明に向き直る。先ほどまでの動揺は見えず、真剣な眼差しだった。
「兄さん……ユーヤは、確かに人間じゃない。もっといえば、吸血鬼だ」
恭隆の告白を、驚きの感情よりも「そうか」と短い言葉で納得する正明に、恭隆も田崎も目を丸くする。
「言っただろう、今更動じないと。お前が夜中に一人で外出させるなんてあり得ない。だからと言って、ユーヤくんが勝手に一人で出歩いた線も薄い。彼の性格は、俺にだって多少はわかる。……彼は、襲われそうになっていた女性を助けるために動いていたと見ていいだろう」
「助ける……?」
詳しく状況を聞いていなかった恭隆が尋ねれば、田崎が話し始める。
「車の後方のガラスが割れていたんですって。視線を誘導させて、隙を作ったんでしょう」
「ちょっと待て、恭隆が知らない情報を、どうして貴方が」
「やっべ……」
恭隆から社員に流れていたと思っていた情報は、どうやら別のルートで入手していたようだ。田崎は明らかに目線をそらしている。
「警察から情報が漏れた、と考えていいのか?」
「あぁ、いや、田崎くんはそういうのじゃなくて……」
恭隆のスマートフォンから、無機質な着信音が流れ始める。恭隆が画面を確認すれば、相手は間違いなく、ユーヤからだった。
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