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9-2 誘拐事件、その要求

「……ユーヤ、から? うまく逃げられたのか?」 「社長、今日『食事』から何日目です?」  恭隆は指折り数え、今日で三日目だと答える。田崎は瞬きをしながら下に視線をやり、首をかしげる。 「夜の散歩で、姿を消して力を消耗している。そんななかで、他に人がいるかもしれない場所にいて、正直逃げられる力が残ってるとは考えられません」 「じゃあ……」 「ヤス、通話の音量を最大にして俺たちにも聞かせてくれ。……スピーカーにはするな。冷静に、受け答えするように」  恭隆はうなずき、先に音量を上げてから画面をスライドさせる。音は遠くから聞こえ、スピーカーからは雑音が聞こえる。 「……もしもし」 『あー、聞こえますかね。社長さん』  ユーヤの声でも話し方でもないことは、三人にはまるわかりだった。つまり、ユーヤを連れ去った犯人のものだろう。 「……こちらには、聞こえている」 『やけに冷静だな。場慣れでもしてんのか?』 「ほんの一か月前に、ちょっとした犯罪に巻き込まれたものでね」  聞いていないぞ、と正明が目を丸くし思わず田崎のほうを見るが、彼は乾いた笑いを漏らしていた。 「……ユーヤがそっちにいるんだろう。『吸血鬼』さん」 『はっは! ネットのネタに食いついてくれてうれしいよ! ……話が早くて助かる。はした金を用意してほしくてさ』 「身代金か」  やはり、誘拐事件と傷害事件は同一犯により行われていたということだ。しかし、今まで身代金を要求してきたことはなく、新たな手口を持って来たということだろうか。 『5億、なら、用意できそうだろ? グループからかき集めれば現実的な金額だ』  膨大な金額を要求し泡を吹かれるより、用意出来る瀬戸際の金額を提示することで、断る口実を作らせない算段だろう。 「……分かった。それにしても『吸血鬼』が金をせびるとはな。てっきり血を要求するのかと思った」 『まさか、吸血鬼って信じてるわけじゃないよなぁ? いるわけねぇだろ、吸血鬼なんて!』  人を馬鹿にするような犯人の語り口調は、三人のいる玄関先の場を一気に凍らせる。正明も先ほど、ユーヤが吸血鬼だと知らされたばかりで、現実の存在だと実感してきたばかりであるが、恭隆と田崎の凍り付きようは尋常ではなかった。 『ネットで騒がれるのが楽しくなってきてさ!どうせならもっとエンターテインメントを提供してやろうと遊びでやってみたら大成功ってわけ!』 (承認欲求が高い愉快犯か……)  唇をかみしめ、正明が電話の向こうにいる犯人を苦々しく思っていると、恭隆と田崎の二人はこめかみに青筋が立ち始めている。 『とはいえ、警察に身代金のことをバレるのは『もったいない』からな。……くれぐれも、警察には言うんじゃないぞ』 「ベタな脅し文句を付け加えるつもりならお断りだ。……警察には、言わない」  恭隆は正明のほうを見て、にやりと笑う。正明は音をたてぬよう、ゆっくりとうなずいた。 (恭隆から警察には言わない、か。確かに、約束は守られている)  この場には警察である正明がいるが、電話から聞こえてきているだけだ。それに、警察として来ているわけではない。 「もったいない、ってどういうことだ」 『これからどんどんやってこうと思ってさ。どういうわけか車のガラスが割れちゃって、その修理代も欲しいし』 「一台買い替えなんて余裕だろう、億の金があるならな」 『あんたが素直にくれればな』 「渡さずにユーヤを戻してくれるなら、それに越したことはないが」 『そりゃあないぜ』  電話口から何かを動かしているような、ゴソゴソと低い音が聞こえる。その音が大きく耳障りだったためスマートフォンを離せば、男の怒鳴る声が聞こえる。 「なんだ……?」  恭隆の声は小さく、マイクには拾われなかった。一度スマートフォンを話すが、男の声がはっきりと聞こえ始め、もう一度耳に当てる。男の声に交じりながら、恭隆にとって聞き馴染みのある、あの愛らしい声が小さくうめき声をあげる。  間違いない、ユーヤは男とともにいる。 「……ベタな脅しは要らないと言ったばかりだが」  恭隆の声色は一層低くなり、眉間には皺が寄る。先ほどまでの余裕は、一切なくなった。 『夜からずっと寝てるだけさ、そう怒るなよ。うめく声って、寝てる時まで聞こえるもんだな。何しても起きねぇんだ。……あんたには悪いが、悪ガキには多少、お灸をすえないといけないし。それはあんたが身代金を用意するまでにしておくよ』 「いつ渡せばいい」 『明日さ。明日の午後にでもしようか。……時間は追って、明日の朝にでも連絡する』 「今すぐでも渡してやろうか。手を出されると聞いて、素直に待つ馬鹿ではないぞ」 『おぉ、おっかないなぁ。でもこれはこっちの事情だ。……じゃあ、明日の朝』  ユーヤの意識は戻らぬまま、電話は一方的に切れた。  玄関には静寂が戻り、三人は立ち尽くす。恭隆のスマートフォンを握る手が強くなり、歯を強く食いしばる。 「ヤス、気持ちはわかるが連絡手段は壊すな」  正明の言葉と被るように、壁を強くたたく音が玄関に響き、怒りに震えていた恭隆も、あくまで冷静になろうと努める正明も、その音のほう――田崎を見つめ、青ざめる。目は座り、怒りのまま叩いた壁はわずかながら亀裂が入っている。 「……ユーヤ様に手ぇ出そうなんざ百年早ぇんだよ底辺が」  恭隆が今まで聞いた中で一番低い田崎の声に、背筋は伸び、心底冷える。 「田崎くん……?」  ふり絞って出た恭隆の声も震え、田崎がその様子に気づけば、明らかに無理しているとわかる引きつった笑みを見せる。 「あとで壁弁償しますね」 「あ、ああ……」 「前、植原社長のとこに行ったときに俺言いましたよね。「人間の底辺なんてそこらじゅうに転がっているわけじゃない」って。……まさかこんな近くにド底辺がうろついているなんて思いませんでしたよ」 「そ、そうだな……、なんか、俺、冷静になれたよ。ありがとう、田崎くん」 「別にそういう意図じゃなかったんですけど。冷静になれない状態は、よくないですからね」 「ああ。……もちろん、実際に出くわしたら一発どころじゃなく殴ってやりたいがな」 「警察の前でなんてこと言うんだお前は」  田崎のことで忘れかけていたが、今は他に正明がいることを恭隆は思いだした。 「逆探知は効かなかったが、さっき連絡が入って、犯人の車のナンバープレートは割り出せたようだ。……先ほどの会話も、裏で録音させてもらった」 「手際がいい……」  感嘆を漏らす田崎に、正明はそんなことはない、と短く答えた。

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