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9-7 誘拐事件、第二のターゲットと黒い犬

 その夜、デザイン会社社長、植原巽の帰りは遅く、そしてひどく疲れていた。敏腕とうたわれた営業部長であった荒川丈が急に退職し、現場が騒然となってからそろそろ一か月が経つ。現場の混乱は収まってきたが、荒川の後継はなかなか見つからず、営業部内でも彼の帰りを待つ声が根強い。分担して行っている作業も多く、社員のキャパシティを超えるものもあった。それほどまでに、荒川に頼っていたことを痛感しているのは営業部もだが、社長である植原もだった。 「……丈くん」  特に植原はプライベートでも荒川と会っていたこともあり、その喪失感は大きかった。社員には休養を取った方がいいと言われたが、植原は断り仕事をつづけた。働けば忘れられると、植原はがむしゃらにも動き続けた。 「離婚の時と同じくらいに、参ってしまっているな」  首を横に振り、頑張らねばと気を奮い立たせる。荒川の現状を知る田崎からも、先日厚生施設での仕事は真面目に従事していると連絡があったばかりだった。何年も待つことになろうと、植原の気持ちは変わらないだろう。  夜道を歩き家路を急ぐ植原の背後から、一台の黒いワンボックスカーが徐行しながら迫ってくる。めったに車が通らない道なだけに、車の音に敏感になっていた。 「……珍しいな、撮影か何かかな」  この近辺は芸能人が住んでいるといううわさもあり、訪問系の取材が来ているのを見かけたことがある。植原は邪魔にならぬよう、足を速めた。ワンボックスは止まることなく、ゆっくりと植原との距離を縮めていく。 (何だろう……とりあえず、今は急ごう)  走ることはせず、近道のため道を曲がる。細く暗がりになっているが、隣接する建物はすべてコンシェルジュが常駐しているマンションだ。自身の住んでいるマンションも、この道を超えればすぐだった。  細道に入ってもなお、ワンボックスは追いかけてくる。だんだんと細くなる道を見て諦めたのか、道の途中で車は止まった。扉が閉まる音が聞こえたかと思えば運転席と助手席から出てきた男たちは植原を目掛け走り出した。 「え……?」  予期せぬ展開に、植原の足は止まる。助手席側から出てきた男の太い腕が、痩せた植原の腕を掴んだ。力ではどうしても振りほどけず、そのままワンボックスのほうへ引きずられていく。 「待ってくれ、何が……」 「騒ぐなよ、社長さん?」  腕を掴んでいる手と反対の方に握られたナイフが、暗闇に光る。植原は一瞬にして、多発している誘拐事件を思い出した。同一犯かはわからなかったが、恐怖から声が出ない。 「よし、このまま連れ込めば……おいどうした!?」  運転席側から出た男はまだ車の近くには来ておらず、すぐに発進できないと焦りが見える。 「なんだこの犬!」  運転手の男の声がした方を見れば、一頭の大型犬が男に向けて吠えたてている。黒い毛におおわれた胴体はひときわ大きく、目元から口元までは白い。助手席の男は植原の手を掴みながらも、運転手を急かす。 「いいから来いよ! 何ビビってんだ」 「噛んできたんだ!……離れろ!」  運転手が犬を蹴り上げようとしたが、俊敏に動く犬には当たらず、逆に蹴った方とは逆の足にかみついた。 「いってぇ!」  振りほどこうと足を動かすも、頑として犬はその口を離さない。しびれを切らした助手席の男は植原の腕を放し犬に駆け寄る。ナイフを振り回し、そのまま犬を追い払おうとしたが、犬はナイフに臆することなく、運転手の足から口を離し、助手席の男にも噛みついた。その長い犬歯はしっかりと肉を刺し、男の鍛え上げられた太い足からは血が流れる。 「くっそ……!テメェ……!」  犬の頭を目掛けナイフを突き刺そうとしたとき、道の反対側から大声で叫ぶ声がする。 「警察だ!何を騒いでいる!何かあったのか!」  あたりを巡回していたのだろう、警察を名乗る声は懐中電灯の光とともに近づいてくる。 「くそっ、今日はパスだ!」 「……チッ」  二人の男は足を引きずりながらも、なんとかワンボックスに乗り込み、バックで下がっていく。そのスピードは速く、細道を出れば猛スピードで現場から走り去っていった。  植原は緊張の糸が切れたように、その場に座り込む。強く握られていた腕が赤くなっている程度で目立った外傷はない。掴まれた腕を抑え、弱弱しく座る植原のもとに、噛みついていた黒い犬が近寄っていく。  改めて犬を見れば、シベリアンハスキーに似た端正な顔立ちをしている、立ち耳のがっちりした体つきの犬だった。  犬はじっと植原を見た後、腕を抑えていた手をぺろぺろと舐めはじめた。 「心配してくれるのかい。やさしい子だ……」  植原の瞳からは、安堵からくるものだろうか、涙が浮かび零れ落ちる。犬の体にも涙が落ちれば、犬は植原の顔を舐める。 「わっ……。ふふ、人懐っこいんだね」  道の奥から光が近づいてきて、植原はようやっと立ち上がる。犬は植原の前に出て、光のほうを見れば低く唸り始める。警察と思っていた植原は、光の奥で見えたその姿に驚きを隠せなかった。 「……本条さん?」 「やっぱり、危ないと思ったんだ……!」  恭隆が安心したように笑めば、そっと植原に抱きついた。植原は抵抗せずそのまま恭隆を受け止める。足元の犬には恭隆は気づいておらず、犬もそっと植原の前から離れ、左横へ移動しぴったりとついて座る。 「昼間言っていた、取材を止めた社長か……」  恭隆とユーヤの関係を知るきっかけとなったのが日海新聞の深谷による取材であれば、それを止めた植原にも犯人の手が伸びるかもしれないと恭隆は危惧していた。そしてそれは、当たったということになる。  正明は植原に会うのは初めてになるため、自己紹介をした後に警察手帳も見せる。植原は驚きながらも、頭を下げた。 「あの、どうして、皆さん……?」 「出来れば、説明は室内で……。ん、植原さん、その犬……」  恭隆はようやっと、植原の横にいる犬に気づいた。正明も視線が犬へ移り、首輪がない、と一言漏らした。田崎はその犬を見て、何かに気づいたようにふーんと呟いた。その顔には嫌みたらしい笑みが浮かんでいる。 「さっき助けてくれたのです。いい子ですよ」 「首輪がないようにお見受けしますが……どこの犬だ」  正明が手を伸ばそうとすれば、犬はするりとかわし、反対側へ移動する。 「おっと……こら、彼らは悪いことしないよ」 「そうそう、悪いことはしないから言うことは聞いとけ。……それとも、俺の口からばらされたいか?」  三人とも驚いたような表情を浮かべ、田崎と犬を見比べる。 「安心しろ、ここにいる全員が『吸血鬼』を知っている」  田崎の言葉に、一つの仮説に至った植原はゆっくりとしゃがみ、犬を見る。どこにでもいる愛らしい瞳をした犬は、じっと植原を見つめている。植原が頭をなでれば、先ほどとは異なり少し俯いた。まるで、恥じらっているように見える。  植原は、にこりと笑い、犬に話しかける。 「そうか、君だったのか。……助けてくれてありがとう、丈くん」  

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