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41 故郷の海
海から吹く風は湿っぽくて、雲は重く翳っていた。波が高い。
「コインランドリーになってら」
かつてコンビニエンスストアだった店は、さびれたコインランドリーになっていた。斜向かいにある家を目指し、歩き出す。
新しく建て替えられた家が多い町に、取り残されたような古い造りの家だ。飾り板ガラスは一部分が欠けてガムテープで補強されている。
緊張して、指が震える。あの夜も、こんな風に震えていた気がする。
ドアチャイム鳴らすと、気密性の低い家から「今、手が離せないから。お兄ちゃん出て」と女の声がした。足音が近づき、ガラス戸の向こうに人陰が映る。
「はい?」
カラカラと小気味い良い音がなり、扉が開く。驚いた顔で目を見開く良輔に、皮肉な顔で笑って見せた。
「泊めて欲しいんだけど」
あの日の言葉のままにそう言えば、良輔は戸惑った顔のまま、一瞬押し黙った。少しの沈黙のあとに、良輔が口を開く。
「――っ、急に、言われても……」
互いに顔を見合せ、フッと笑う。良輔の手が伸びて、触れようというところで止まった。
「……」
無言で良輔の手を取る。頬に導き、瞳を閉じた。良輔は両手で頬を包み、額を寄せる。
ただ、そのまま、しばらくそうしていた。
「……変な噂が立つぞ」
「構わないよ」
顔を上げ、薄く笑う。指先を絡めあい、良輔がじっと俺を見た。
「佐々木先生に会ってきたよ」
「……そっか」
「色々言いたいことはあるんだけど」
「うん。……なあ、渡瀬。怒らないで、聞いて」
「ん?」
「こんな状況だけど、お前が来てくれて嬉しい」
「――」
ふわりと笑って、良輔は俺の髪を撫でた。
「やっぱり、この海が似合うよ。渡瀬は」
愛おしそうに笑う良輔に、胸が苦しくなってしまう。お前こそこの土地の空気が似合うよと、口に出てしまいそうだった。
「少し、歩きながら話そうか」
良輔に促され、通りに出る。
「ゴメン、ビックリしただろ。急に」
「それな。お前、何で電話出ないんだ」
「寮に忘れたんだよ」
「は?」
けろっとした顔で言われ、脱力してその場に座り込む。なんだよ。俺はてっきり……。
「親父が事故ったって言うからさ、慌てて……」
「えっ!? 大丈夫なのかっ!?」
「帰ったらピンピンだったよ。同窓会で帰るって言ってたのに帰らなかったから、大袈裟に言ってたんだ。ったく……」
「はぁー……。まあ、良かったじゃん」
「良くないよ。慌ててスマホ忘れたから、お前に言っていけなかったし」
そういう理由だったのか。
「まあ、良いだろ」
溜め息を吐いて、まただらだらと歩き出す。通りは店が少ないせいか車通りもあまりなかった。閉められた店も多い。
「隠してて、ゴメン」
「……」
チラリ、良輔を見上げる。
「……いつから、解ったんだよ」
「確信したのはアレだよ」
「アレ?」
「裏アカ」
まさか。思わず足を止める。
「入社式の時じゃないのかっ?」
「あん時は確信がなかったんだよ。旧姓しか知らなかったし……。ただ、何となく面影があるような気がして、ずっと気にはしてたけど……あの、ハートの痣で、確信した」
よくも、そんな痣を覚えていたと想う。良輔が見たとすれば、プールの授業の時くらいだろう。それも、何回もはなかったはずだ。
「がっかり、しただろ? こんなヤツになってて」
「……」
良輔がぐしゃぐしゃと髪を弄くる。海風のせいでよけいにぐしゃぐしゃになった。
「おいっ」
「俺の自己満なんだ。お前が、どこかで幸せになってれば良いって、ずっと思ってた」
良輔は目を合わせなかった。佐々木が、後悔していたと言っていたのを思い出す。
「お前の生活に干渉したのも、お前を探したのも、俺が、お前が不幸だったら、罪のように思えて――ゴメン。本当に」
「……俺と付き合ったのも?」
「……幸せに、したかった。誰かがやらないなら、俺が――」
「過去形?」
良輔は静かに首を振った。
「本当は、多分。ずっと、好きだった……。あの時、俺を頼りに来た、頼りない顔を、忘れられなくて……」
良輔の手が頬に触れる。良輔は今、過去の自分を見ている。母親に嫌われ、通りすぎてきた人たちに嘲笑われた顔を。
俺にとって呪われた、忌まわしい顔。だけど、良輔がずっと探していたのは、俺の姿だったのだろう。
「ゴメン。好きになれなくて、変えちゃった」
「謝るなよ。今の顔も好きだ」
俺も、良輔の頬に手を伸ばす。良く見ればあまり変わらないのに。どうして気づかなかったのだろうか。
「俺、良輔を枷に嵌めたいとは思ってない」
「枷なんかじゃない」
「ずっと、探してくれて、ありがとう。見つけてくれて、ありがとう。良輔」
「――渡瀬」
すぅっと息を吸い、呼吸を整える。心臓がドクドクと高鳴る。けれどこれは、心地よい胸の高鳴りだ。
「好きです」
真っ直ぐ良輔の瞳を見て告げた言葉に、良輔が目を見開く。
「――渡瀬……」
「幸せになったかは、隣で見ていて欲しい。……ダメかな?」
「っ、ダメなわけ、ない。……幸せに、する。絶対に」
泣きそうな顔の良輔の背に腕を回し、顔を寄せる。
潮騒の音。海からの風。互いの体温。
故郷が、嫌いだった。
居場所なんか、一つもなかった。
けれど、俺を大切に想う人は、一人だけ、居た。
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