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第1話
ヴェルデマキナ侯爵家。
それは、優れた商いの能力によって大国アルルカンドの王家にその有能な血筋を認められ、貴族にまで上り詰めたとある民間出身の一族の名である。商いを続ける一方で、農業の盛んな西方の町「イシュミルア」、工業や加工資源の政策に特化した町「リミテッド」、アルルカンドの隣国のうちの三つに隣接するという人々の往来が盛んな町「ドゥエラ」など、多くの領地を所有する有力貴族。
「ミラビリス」は、そんなヴェルデマキナ家が統治する領地の一つであった。
見上げた空はどこまでも高く、この世の何よりも壮大で雄大である。浮かぶ白い太陽は生きる人々を等しく照らし、世界に朝を連れてくる。そんな快晴の青空を見上げ、アダマスは空を泳ぐ鳥を見送る。その鳥の背を追うように郊外の別宅を出ると、町へ向けて歩み始めた。
本宅の屋敷からこの辺境の町、ミラビリスに飛ばされて、早くも三日が過ぎた。最初この町に来た時は、丘の上から見下ろした外観の未発展さに思わず頭を抱えたが、住めば都とはよく言ったものだ。
二階建ての建物すら少ないこの町の頭の低い家々は、アダマスのような外部の人間には建築技術が発展していない古い様式を思わせた。だが、その風景は町を囲う深い山と森林によく馴染んでいる。木製の建物が多く、赤レンガの屋根も相まり素朴さと共に温かさを感じる。一見すると田舎臭い町のように見えるが、このミラビリスに住む人々の穏やかな暮らしと、ゆったりと流れる時間を象徴しているようで第一印象ほど悪い町ではない。
「あら、確か商人の……」
「アダマスだ。アダマス・ヴェルデマキナ」
「そうそう、ごめんなさいね。貴族様の立派な名前は難しくてなかなか頭に入らなくて」
「構わん。俺は特に気にしない。何度でも聞いてくれ」
「いいえ、もう忘れないわ。ヴェルデさんね」
民家の前で掃除をしていた人族の婦人は、アダマスの姿をジッと見つめると途端ハッとしたように目を開く。持っていた箒を庭の柵に立てかけると「ちょっと待ってね」と言っていそいそと家の中へ入って行く。待てと言われた以上勝手に去ることもできず、アダマスがその場で開いたままの屋内を覗いていると、婦人は間もなくぱたぱたと小走りで飛び出してくる。
「これ、ミートパイ! 昨日子どもたちと作ったのだけどパイ生地を作り過ぎてしまってね、お昼にでもどうぞ」
「いいのか?」
「ええ、ええ。あ、もしかして雪豹さんは食べられないものだったかしら?」
「いや、平気だ。有難く頂戴しよう」
婦人から手渡される黄色の蓋のついたバスケットを受け取りながら、アダマスは静かに頭を下げる。帰りにバスケットを返しに来ることを伝え、アダマスは改めてミラビリスの中心部へと歩を進めだした。
ここは、人口数万ほどの小さな町。集落や村のような変なしきたりもなく、名門の商家の屋敷から越してきたアダマスのことを目の敵にすることもなく、あの婦人のように温かく迎え入れられた。
ミラビリスは比較的人族の方が多いようではあったが、獣族であるアダマスを気にするような者も一人としていなかった。他国はどうだか知らないが、アダマスの暮らすこのアルルカンド王国はもともと人族と獣族を区別する風潮はなかった。なんらかのリーダーを立てる際は、必ず人族と獣族から一人ずつ出すように定められていることなどから分かるように、むしろ平等であるよう国から働きかけられている。
実際、二つの種族の違いは容姿くらいのもので、それ以外はほとんど同じなのだから、それは当たり前のことではある。獣族の中にも祖先となった動物の違いによっての体の大きさが異なっていたり、好みの違いこそあるが、それは人族の個人差と同様のものである。多少人族の方が知力があり、獣族の方が身体能力が高いという違いはあるが、それも個性の一つであり故に差別化するものではない。
雪豹の獣族であるアダマスは人族と比較すると体が大きく、獣族の中でも大きいサイズに分類される獣族であった。肉食動物が祖先であることもあり、その気はなくとも威圧感があると恐れられることが多いが、その根は穏やかな性格であった。町の人々はアダマスからその本質を汲み取っているのか、大きな雪豹を目の前にしてもビクビクとあからさまに委縮するような者はいなかった。
これまで過ごしていた屋敷では、まるで今にも噛みつかれるのではと身を縮め、こちらの気を窺いながらヘラヘラと媚び諂う取引先ばかりでうんざりしていたアダマスにとってはこの町の人々の接し方はとても居心地が良かった。まだ三日しか過ごしていないが、町を歩く人族と獣族の間に境界はなく、それもまたアダマスにこの町の心象を良くしていった。決して豊かではないが、何よりこのミラビリスで生きる人々の心が豊かである。
アダマスが町の繁華街に到着したのは、店が開店し、朝市が始まる時刻。動き出した市場は小さい町ながら賑わっている。そんな賑わいを眺めつつ、アダマスは店の物価や売れ行きの様子を逐次観察する。この町の「商売」に関わる仕入れは、すべてアダマスの父が当主を務める商人の一族・ヴェルデマキナ侯爵家が卸を行っていた。大概の買い付けはすでに定まっており、季節によって一定の数量を市場に卸しているが、客というのはなかなかこちらの思うようにはいかないものである。思わぬものがよく売れたり、逆に売れ残ったりと完璧にコントロールするのは困難なものだった。
――想定以上に果実が出ているな。もう少し買い付けておくべきだったか。
露店から多少離れた位置でアダマスは首を捻る。果実は基本、人族獣族問わず好む食物であるため、肉や魚よりも多めに仕入れてはいる。だが、それでも少し不足しているようだ。改善点を頭に入れつつ、次回の仕入れを増やすことを念頭に置く。この町のように他に店がないような場所では、「仕入れが足りない」というのはただの売り上げの問題ではなく、町全体の食糧不足という問題となってしまう。
アダマスは次に別の店に向かうため、今度は露店から外れた一軒の建物へと向かう。芳ばしい匂いの漂う古風なパン屋の、その隣。そこは店先にも可憐な色彩が並ぶ花屋だった。アダマスはその花屋の店内に立ち入り、焼き立てのパンとはまた違った香りを纏う花々を見渡す。
露店ほどの賑わいはないが、店内には十数名の客の姿が見られた。その客に向かって赤色の花を紹介している店主に、アダマスは近づいていく。
「ありがとうございました。……と、おや、おはようございます。ヴェルデマキナ侯爵殿」
「あぁ……、侯爵は父のことで俺は伯爵だ」
「あ、失礼しました。えーっとでは、ヴェルデマキナ伯爵殿?」
「そもそも敬称は爵位ではなくて卿……いや、わざわざ爵位は言わなくていい。普通に呼べ。で、どうだ。調子は」
「そうですね……、今のところですと、この町は庭をお持ちの方が多いので苗が多く出ていますね。花瓶というものをそもそもお持ちではない家庭を多いので、逆に切り花は少々……、でも、毎日買いに来られる方もいますので需要がないわけではないようです」
アダマスは「そうか」と呟き、店内にディスプレイされた花瓶のアレンジメントに視線を送る。この花屋は、アダマスがミラビリスに越してくると同時に開業したばかりの店だった。花は食べ物以上に客の需要が掴みづらく、アダマスも絶賛手を焼いている最中である。花を育てる、という文化はこれまでは比較的貴族の娯楽であるとされてきたが、近年庶民への需要も増し、試験的に花の販売にも手を出したのだが、なかなか読みづらい。見る分には良いが、育てる分には少々……、といった思考があるのだろう。さてどうしたものかとアダマスは頭を捻る。
しかし、花というものは何とも甘い香りを纏うものだ。一つ一つの花はこんなに小さなものであるというのに、漂う香りはとても強い。少し、強すぎるのではないかと思うほどに。
「……、おい。この香りはどの花だ」
「はい? ん、あれ?」
まるで酒を思わせるような、酔いしれてしまうほどの香り。それはアダマスの身体をぞくりと震わせた。微かに身を縮め、鼻を動かさないようにしながら店主に聞くと店主は首を傾げた後にスンスンと店内の匂いを嗅ぐ。人族である店主はアダマスに比べ嗅覚が弱いのだろうが、この強い匂いを感じないはずはない。
「……ねぇ、この香り」
「スカーレットのフェロモンの匂いじゃないか?」
外側を向いていたアダマスの片耳が、店内にいた男女の話し声を聞き取る。耳をピクリと揺らしたアダマスは咄嗟に店内を見渡す。店の外まで漏れていたその香りに誘われた人々が店内に迷い込んでくるほどの香り、その源がここにいる。
スカーレット。それは、花の香のような甘い香りを持つ、全人口の中で十パーセントほどしか存在しない、性別問わず子宮を持ち子を孕むことができるただの男、女とは異なる特別な性のことだ。
基本的に小柄で愛らしい容姿をしていることから花の「スカーレット」を連想させること。また、定期的に発生する発情期の様子が、徐々に燃え上がる炎のようであることから、火を連想させる色である「スカーレット」を彷彿させること。それらの事由から、そのままスカーレットと呼ばれるようになった特殊な性を持った人間。
そんな希少な存在であるスカーレットは、人々の興味を惹きつける対象でもあった。
「発情期のスカーレット?」
「どいつだ?」
スカーレットには、一つ大きな特色がある。それが「発情期」である。出産経験のないスカーレットのみ、子孫繁栄への遺伝子的な本能により初経を迎えると同時に発情期を迎え、以後月に一回、出産するまで発情するようになる。発情中のスカーレットが零すフェロモンの強さには個人差があり、またフェロモンへの耐性も個人差がある。この場に漂う香りの強さは、発情期のスカーレットのものに近かった。
「あわわわどうしましょうヴェルデマキナ様! あれ、ヴェルデマキナ様?」
好奇心にそそられた人々でごった返す店内で、アダマスはひらりと店を出ていく人影を見た。グレーのローブを纏った、背の高い人族。ローブは体のラインを隠し、深く被ったフードは顔を隠し、頭髪といったものも見えない。だが、背格好からするとあれは男だ。そして布の隙間から覗く顎のライン。あれは人族のもので間違いない。
そのシルエットは「一般的に小柄である」と知られているスカーレットとは大きく異なっている。そのこともあってか、人々はスカーレットを探しているにも関わらずその男には目もくれない。しかし、アダマスの視線はその男から離れなかった。
「あいつだ」
「は? あ、あぁ! ちょっと!」
慌てた店主の制止も聞かず、アダマスは店を飛び出す。先に店を出たローブの男は人込みをするするとすり抜け、路地へと飛び込んでいく。アダマスはほとんど無意識にその背中を追いかけていた。あの花の香りを嗅いでから、身体がざわついて仕方がない。アダマスは獣族であるため、人族よりもよっぽど鼻が利く。そのためフェロモンの発生源を嗅ぎ分ける力は人族よりも高い。だが、違う。
――なんだ、この感覚は。
あの男をスカーレットだと見抜けたのは、アダマスが獣族だからでも、鼻が利くからでもない。アダマスの本能が、あの男がスカーレットであると確信していた。
体内の血液が温度を上げる。走っているだけだというのに、込み上げた熱が脳まで本能に犯されていく。それはアダマスにとって初めての感覚だった。
今すぐにあの背中に手を伸ばしたい。身を覆う布を剝ぎ取り組み伏せてやりたい。
あのスカーレットの全てを、この手中に収めたい。
「きゃぁ!」
「うわ、」
「すまない! ち……っ、あいつ……」
すれ違う人々を寸でのところで躱しつつ、追いかけっこは続く。そう、ローブの男はアダマスと対等に渡り合っていた。獣族の、雪豹の足から、逃げ続けたのである。人族に身体力で敗北したことなどこれまで一度もなかった。追いつけなかったことなど、ただの一度も。
「逃がしてたまるか……!」
諦めることは、獣族としてのプライドが許さなかった。相手は人族なだけでなく、発情期のスカーレットでもあるはずだ。そんな相手に逃げられるなど、雪豹の一族の名折れである。ギリと歯を噛み締めたアダマスは踏み切る足に力を籠め、前へ前へと体を押し出す。それはまるで、獲物を狙う獣のように。
男は再び路地へと逃げ込む。入り組んだ道でアダマスを振り切るつもりだったのだろうが、アダマスは道が狭いことをいいことに高い身体能力を用いて飛び上がり足で壁を蹴って勢いをつける。
思い切り伸ばした手は、ようやく男の肩に触れる、はずだった。
「ぃよっ……とぉ!」
「うぐっ!」
瞬間、アダマスの視界はぐるんと一回転する。実際回転したのは全身であるが、急なことにアダマスの脳は追いつかない。
男は肩に伸びたアダマスの手を掴むとそのまま自分は身を丸め、アダマスを前方へと投げ飛ばしたのだった。いつか出会った東洋の商人が「一本背負い」とか言っていたような、そんな技に近い。ものの見事に石畳に投げ落とされたアダマスの腰に、自分の体重分の鈍い痛みが伸し掛かる。
「悪いな。オレはそんなに安くないんだ」
痛みに唸りながらのたうつアダマスの頭上から、男の声が降ってくる。見上げた先にあったのは、フードで頭を隠した男の勝ち誇ったような笑み。整った目鼻立ちにキリとした形のいい眉。その中に浮かぶ、吸い込まれてしまいそうな、宝石を散りばめた星空の瞬きを持った大きな群青色の丸い瞳。そこには疲弊の色はなく、ついでに発情に色もなかった。
「っ、ま、待て……!」
「あんたも悪いんだからな? さっさと諦めないから。ま、オレ用事あるから、じゃな」
アダマスの呼び止めも空しく、男はひらひらと手を振りつつさっさと背を向け表通りへと歩き出す。その手にはあの花屋で売られている切り花が数本抱えられていた。男はアダマスを振り返ることはなく、その背中は容易く人込みに消えていく。残されたアダマスは、数分後ようやく身を起こす。腰には鈍い痛みが相変わらず残っていた。
「くそ……」
男が残したのは、痛みだけではない。
路地に微かに残った、甘い、花の香り。それは男が持っていた花の香りではなかった。だが重要なのは、それではない。あれほど、どんなスカーレットを目の前にしても昂らなかったというのに。この身体が芯を持つことはなかったというのに。道に残ったこんな僅かな香りにすら、身体が、心が惹きつけられてやまない。
「なんなんだ……」
自らの下腹部に触れたアダマスは、思わず目を見張る。衣服の上からでも分かるほど、そこは熱を持ち、芯を持っていた。去っていったあの男を我が物にしたいと、喚いている。
「なんなんだ、あいつは……」
誰に言うともなく、アダマスは吐息混じりに呟く。発情期かと思えばその様子も見せず、人族かと思えばそれでは有り得ない身体能力を見せ、その上スカーレットかと思えば自分よりもよっぽど体格に差がある獣族をいともたやすく放り投げた。あの男がスカーレットのフェロモンを撒いていたことは間違いない。花屋で感じた香りは気のせいではないし、あの場にいた他の人間も感じ取っていた。だが発情期のスカーレットはもっと余裕がないものだ。紅潮し肌を染め、雄を誘う香りを撒き散らすことから「スカーレット」と呼ばれるようになったのだから。そもそもあの体格もおかしい。華奢で可憐であるから「スカーレット」と呼ばれるようになったのだから。
「…………」
男が去ったことでアダマスは徐々に理性を取り戻していく。あの男を追っている時の自分は、果たして本当にアダマス・ヴェルデマキナだったのだろうか。そう思わずにはいられなかった。体中の体液が湧き上がり、熱で頭がどうにかなりそうだった。あんな感覚、これまでに味わったことがない。
もしも、あの男が自分を我に返してくれていなかったら。もし、あの男がこの手に捕えられ、組み伏せられていたら。自分は今頃、どうしていた?
「…………、」
アダマスは無言で首を強く左右に振る。これ以上は考えてはいけないと理性が告げている。
獣族と、獣は違う。理性を失ってしまえば、本能に従うままの獣だ。あんな、あんな暴力的なだけの欲など、獣と同じではないか。
――俺は、獣ではない。
アダマスは困惑で満ちていた思考を振り払う。長い間アダマスの中にあった一般的な人族、スカーレットへのステレオタイプをことごとく否定され、その上これまで息を潜めていた己の中の野生を知ってしまった。一度に多くのことが発生しすぎて収拾がつかない。しかし、だからといっていつまでもこんな場所で呆けてはいられない。アダマスはちらと主張をする自身を見下ろし再び深い息を吐き出した。
「これはどうしたものか……」
鼻腔に焼き付けられたあの香り。それはこれまで熱を知らなかったアダマスに確かな熱を教えていた。目を瞑った脳裏に浮かぶのは、こちらを見下ろしたあの美しい星空。
アダマスは壁に手を突き何とか立ち上がる。ここにいれば熱が治まらない。ひとまず、どこか誰も来ないところに行かなければ。この熱は、そこで処理する他ない。
ひとけのない、自身が受け持っている店の倉庫に身を隠し、一息つくまでのその間。男の姿はアダマスの頭から離れることはなく、結局あの香りを、あの瞳を思い出しつつ、アダムスは自らを慰める羽目になるのだった。
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