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第2話
散々な午前を過ごしたアダマスは、その後花屋に戻り、早朝婦人に頂戴したミートパイ片手に花屋の店主と店の方針を定めるに至った。この町では観賞用として観葉植物や切り花を提供するよりも、造園を娯楽として定着させることを指針とした方が良いだろう。切り花は特別な日のものとして最低限の仕入れに留め、一度苗や種、肥料といったものに方針を定め、様子を見てみる。もしそれで上手くいく様子がなく、売り上げが滞るようであれば改めて検討する必要がある。
店での商談を終わらせたアダマスは深々と頭を下げた店主に背を向け、花屋を後にする。幸か不幸か、あのスカーレットがフェロモンを撒いたことによって集められた客が興味本位で店を覗いてくれたお陰で花屋の存在を認知した町人が増えた。彩りこそ美しく、目を引くような内装にはしてあるのだが、未だ植物での商売は浸透していないため町の中でここに花屋が新しく開店したことを知っている町人はまだ少ない。騒ぎを起こされるのは面倒だが、今回ばかりはその騒ぎがプラスに働いてくれたようだ。
人の往来があまり多くないこの町では、客足のピークは基本的に午前中である。そのため、商人であるアダマスの外での仕事は正午を迎えると共に終了し、午後は邸宅に戻り発注書を書いたり、買い付けの依頼書を書いたりといった書き物仕事を行う。だが、邸宅に戻る前にアダマスにはもう一か所目的地があった。
往来で遊ぶ子どもたちを横目に、アダマスはミラビリスの北側へと歩みを進める。ほどなくして、アダマスの耳から町の喧騒が遠退いていき、赤や茶色のレンガ屋根の並んだ住宅が遠くに見え始めた。このミラビリスは上空から見下ろすとちょうど円形になるような形をした町である。露店の他、図書館や役所、宿や飲食店といった施設は町の中心部に集まっており、そこから東西南北に住民たちの住む民家がその中心部を囲うように点在していた。特に規則的に並んでいるわけではなく、何となく家と家の距離を開けて好きなところに家を建て、何となく個人の庭を柵で囲っている。町に住む人々の自由さが窺い知れる。これでよく建設する際に揉めたりしないものだ。
アダマスの目的地は、町の中心部と北区との境にある、石レンガの建物だった。普通の家屋よりも大きなその建物は、重厚な木製の扉があるにも関わらずその扉は外側に開かれたままで扉の意味を成してはいなかった。
「じゃーね! おねぇちゃん!」
「ありがとうございます。お世話になりました」
「いえ、お大事になさってください。お薬ちゃんと飲まないとダメだよ?」
「はーい」
その開いたままの扉から、人族の親子が出てくる。二人の親子の身なりにこれといった特徴はなく、ただの町に住む人族であることが分かる。頭を下げる母親に対し、子どもの方は共に外まで出てきた温かみのあるクリーム色の毛皮を纏う獣族に向かって手を振っていた。人族の女よりも多少背の高い獣族は垂れた耳を頭の横で揺らし、ふさふさとしたこれまた毛の長い尾を揺らしている。彼女は大型の犬の獣族だ。
「……あれ? アダマス? 今日も来たの?」
「何か問題が?」
「あるに決まってるでしょ? 昨日検査したばっかりでまだ結果出てるわけないのに」
「そんなことは俺でも分かる。今日は別件だ。で、アーティ、リヒテルヴェニアは?」
「リヒテル先生は診察中です。大人しく待合室で待ってなさい」
くるりとアダマスに尾を向けたアーティはさっさと建物の中に戻っていく。相変わらず、犬の癖に素っ気ない。アーティの背中を追うようにして建物の中に立ち入ったアダマスは、静かな屋内を見渡した。
ここは、この町唯一の診療所である。働いているのは先ほどのアーティという獣族の看護師と、リヒテルヴェニアという医者の二人のみ。たった二人で切り盛りする診療所ではあるが、アーティは薬物の調合が的確で数分の乱れも出さない優秀な薬師、リヒテルヴェニアは医学知識が豊富でありどんな病もその原因を突き止める確かな腕を持った医者であった。そんな実力者がいる上、この町の住人はそもそもそれほど病気をしないことも相まり、アダマスが見渡した診療所内に他の人影はなかった。
アダマスはこの診療所には昨日すでに訪れていた。ここに越してきた目的の一つがこの診療所、リヒテルヴェニアという腕利きの医者なのだから当然のことではある。事前に連絡はしてあったため、リヒテルヴェニアはアダマスが訪れるとすぐさま「検査してやる」とアダマスが診察依頼をする前に快諾した。
アダマスがリヒテルヴェニアに依頼したかった治療は、勃起障害の治療である。人族と比べ、勃起能力が高く持続時間も長いはずの獣族でありながら、アダマスはこれまで生きてきた中で一度も満足に性行為を行うほど十分な勃起を起こしたことがなかった。そもそも、勃起どころか性的にそそられないのである。その原因を突き止めるため、そして治療を行い、生殖能力を手に入れ本家のある屋敷に帰るため、リヒテルヴェニアに治療してもらう。つもりだった。
だというのに、検査を行った翌日。得体の知れないスカーレットに身体が反応した。これはどういうことだと、アダマスは聞かずにはいられなかった。昨日のうちにリヒテルヴェニアが何かしたのか。それとも別の何かが原因なのか。
「ぐっ……!」
考え事をしながら待合室の椅子に腰を下ろしたアダマスは、直後腰に鋭く駆け抜ける痛みを感じ小さく唸る。そういえば石畳に打ちつけたのだった。正しくは、打ちつけられた、のだが。ついでにこれも診てもらうかとアダマスは腰を擦りつつ、診察中だという先客が去るのを待つ。が、その先客がなかなか出てこない。
「……」
アダマスは薬剤室で薬の調合をしているアーティを横目に見る。アーティはアダマスのことなど微塵も気にすることなく、複数の粉末状の薬を個包していた。
「犬」という生物は、主人に対しては従順で、強い忠誠心を持っている。アーティにとっての主人というのは、恐らくリヒテルヴェニア医師であり、縄張りはこの診療所。そこに入ってきたばかりの新入りであるアダマスに対して愛想がないのは当然と言えば当然で、むしろ犬らしいのだろうが、ツンとそっぽを向かれるのは気にくわない。と、そう思っていた矢先、ふとアーティが何か思い立ったかのようにくるとこちらを振り返る。
「そういえば、アダマス? あなた植物の買い付けもしているの?」
「なんだ急に」
「別にいいでしょ? それで、『ミラビリス』っていう植物を知らない?」
「……ミラビリス?」
腰の痛みを隠しつつ、アダマスはアーティの話に耳を傾ける。ミラビリス、というのはこの町の名前のはずだ。同じ名前の付いた植物の覚えはなく、アダマスは首を捻る。アーティは薬剤室の中にある本棚から一冊の本を取り出すと、ペラペラと本を捲りだした。
「そう、ミラビリス。このミラビリスという土地の周辺に植生しているからそのままミラビリスって名前が付いたって話ね。だけどここに来てから数年、私も町の周りをあちこち探してるけど見つからなくて、町の人やリヒテル先生も知らないって」
アーティが手にしていた本は薬草の図鑑のようなものだった。手書きの文字はアーティのものらしい。自分で見つけた薬草の情報をまとめて記載しているようだ。その中の一ページをアーティはこちらに見せる。そのページは他のページと異なり、植物のスケッチもなく、名前と共にほんの数行だけ植物の説明書きがあるだけだった。
「薬師ならば一度は聞いたことがある薬草ミラビリス。名前だけは有名なわりに、実際にその植物を目にしたことがある人はいないっていう伝説の薬草なんだけどね。この薬草は、それだけでは効果はないけど、薬草に混ぜるとその効力を倍増させるらしいの」
「誰も見たことがないのにそんなことが分かるのか?」
「夢物語って可能性は十二分にあるけど……、そもそもミラビリスが姿を消したのはその強すぎる効用から乱獲され絶滅してしまうのを防ぐために意図的に隠されたっていう説があるの。確かに現代に実在していたら間違いなく貴族が独占してるでしょうね。……でも、それさえあれば」
空白のページを眺めるアーティの瞳は複雑な感情が宿っていた。その感情の正体をアダマスが知る由もない。見た目も分からない植物についての情報などアダマスが出せるはずもなく、図鑑を眺めるアーティの視界の隅でアダマスは音を立てずに椅子から立ち上がる。
さては本当は診察中の患者などいないなと、アダマスはアーティの様子から推理していた。まだ検査結果も出ていないのに急かしに来た面倒な患者だと思われているのだろう。それならば、勝手に診察室に向かわせてもらう。
「うん? あ、待ちなさいアダマス!」
「おい、リヒテルヴェニ「おわぁっ!」
診察室に繋がる扉の手をかけ、前方へと押し開く。瞬間扉はゴンと何かにぶつかる音を立て、半開きの状態で止まってしまった。扉の前に何か置いているのか。しかし、今の声はリヒテルヴェニアのものではない。
「いってぇな! なにすんだよ!」
「うおっ」
半開きだった扉が今度は反対側から押し返される。力任せに押される扉から、アダマスは慌てて身を引く。すると扉は勢いよくこちら側へと開き、扉の向こう側にいた相手が姿を見せた。
「頭打っただろ! ちゃんと確認してから、あけ、ろ……って」
「……お前は」
忘れもしない背格好。灰色のローブで身を隠したその姿。深く被ったフードから覗く、星空。
昼間のスカーレットの男に、間違いなかった。
「ぁ……お、前、こんなとこまで追ってきたのか? さすがにそれはナシだと思うぞ?」
「そんなわけがあるか! どこかの誰かが投げ飛ばしてくれたお陰でこちらは腰が痛くて仕方ないんだ!」
「へー。また誰かに手出したのか」
「お前だお前! 人聞きの悪いことを言うな!」
「町ン中でおったてながら追っかけてきたやつに言われてもなぁ」
「な、誰が!」
「あぁッ! もう! うるさい! 喧嘩なら外でしなさい!」
嫌味の応酬に割り込むのはアーティの怒鳴り声だった。強く吠えられ二人して肩を跳ねさせ、歯をむき出しにしているアーティに向かい、それぞれ「ごめんなさい」「すまない」と鳴くような細い声を出す。するとアーティは「分かればいいの」といつも通りの表情に戻り、ニコニコとこちらを見つめていた。まだ男に言いたいことはあったが、あの笑顔がある限りここで罵声は飛ばせない。男はちらとこちらに視線を向けるが、すぐにふいっと顔を背け、アダマスの肩を突き飛ばしながら診察室を出ていく。心なしか、子どものように頬が膨れていた。
「あら、お薬は良かったの?」
「あぁ、まだあと一週間分あるよ。明後日また来るから、薬はその時でいいかな。ありがと、アーティ」
男はそのまま診療所から出て行ってしまう。その背中はまるでアダマスから逃げているようにも見えた。もう追いかける気などないというのに。男を追いかけているアーティを他所に、アダマスは診察室へと視線を移す。
診察室の中は個人の診療所にしては広く、椅子と机の他に処置のためのベッドや診察用の器具が並んでいた。患者の種族や体格によって器具を使い分ける必要があるため、ベッドも数種類が用意されており、宿の一室くらいの広さは軽く超えている。診察用の机は診察室に入ってすぐの位置にあり、そこには呆れた顔をした人族の男が肘を突いてアダマスを見ていた。
「なんだその目は」
「おれはここを小児科にしたつもりはねェんだけどなァ? ガキしかこねェな」
気だるげな語尾に、荒い口調。何も知らない人物なら、まさかこの男が町で唯一の、国内でも有数の腕利きの名医だとは思いもしないだろう。実際、アダマスも出会ってすぐはこの男が貴族の間でも有名な医者、リヒテルヴェニア・アルモンド医師だと思えなかった。医者であると同時に研究者でもあるというリヒテルヴェニア。様々な病の原因を解明し、治療法を提案しているという話は、貴族の間でも噂されていた。そんな情報からアダマスはリヒテルヴェニアのことを勝手に「年配の医者だろう」と想像していた。
だが、実際診療所にいたのはアダマスと同年代の青年だった。明るい夕焼け色の髪を後頭部で一つに結わえ、端の垂れた目を愉快そうに歪めながら「信じらンねぇなら帰っていいぞ」と言われたことは記憶に新しい。当初は疑惑を抱きつつも、検査を進めていく中でアダマスは彼がリヒテルヴェニアであると確信を持つに至った。的確なヒアリングで勃起不全という悩みで訪れたことに多少の羞恥を抱えていたアダマスを解きほぐし、リヒテルヴェニアは真面目に症状と向き合っていた。信頼に足る人物であると、アダマスがこちらに越してきて初めて感じた相手でもある。
「相変わらず患者に対して不遜な医者だ。よくそれでまかり通ったな」
「ははは、傲岸不遜はお互い様だろ? 自分のことを棚に上げるのは良くねェな、貴族サマ?」
煽る様に嫌味を言うリヒテルヴェニアに対し、アダマスは鼻を鳴らす。他人にへりくだることを嫌うという、イヤなところで似た者同士である二人の間には腹の探り合いは必要ない。リヒテルヴェニアの言う通り、アダマスは商人の癖に「建前」をうまく使えない。考える前に本音が転がり出てしまう。そのせいでつい喧嘩腰に取られてしまい、商談も失敗と成功を同じ数重ねてきた。
今のスカーレットの男のこともそうだ。決して喧嘩をするつもりはなかった。つい声を荒らげてしまって、言い返してくる相手にはより強く言い返してしまう。不満そうな顔をして立ち去った星空の瞳を持った男を思い出し、アダマスはついため息を吐く。
「んで? 腰痛めたって? ホラ、診てやっからさっさと寝ろよ。うつ伏せ」
「あぁ……」
椅子から腰を上げたリヒテルヴェニアはアダマスが寝転がれるサイズの大きなベッドの方へと向かう。アダマスは大人しくそれに従いベッドの上にうつ伏せになる。背骨を中心に触診を行い、痛みの程度や骨に異常はないか確認していくリヒテルヴェニアはやはり間違いなく「医者」の顔をしていた。
「骨には異常ナシ、打撲だな。テメェの歳なら一週間もすりゃ治る。アーティに痛み止めでも貰っとけ」
「……そうか」
「まァ、自業自得だ。これに懲りたらテイルラには手ェ出さないことだな」
「……テイルラ?」
聞き覚えのない名前にアダマスが首を傾げた瞬間、念のためと患部の周りまで確認していたリヒテルヴェニアの手がはたと止まる。それきり何も言わなくなってしまった。首を転がし、アダマスが見上げた先でリヒテルヴェニアは何か考え込むように唇に指を触れさせていた。先ほどまでののらりくらりとした態度からは想像できないような真剣な表情で、アダマスは「リヒテルヴェニア?」と声をかける。
そういえば、あの男も医者にかかっていたということはどこか悪いのだろうか。さらに随分と長いこと診察していたようだった。リヒテルヴェニアならば、あの男が何者なのか知っているのではないか。
「おい、」
「テメェ、俺に『性欲を自覚したことがない』とか言ったろ? なんでアイツに手ェ出した? 嘘ついたのか?」
「嘘ではない。初診で話したことはすべて真実だ。俺が腰痛だけでわざわざ来ると思うか? 要件はそっちだ」
アダマスはベッドの上で身を起こしつつ、腰に手を当てる。痛みはあるが、我慢できないほどのものではない。移住したてで、さらに新店まで開けたばかりで仕事に忙殺されているというのに薬をもらうだけならまだしもわざわざ診察まで頼むような時間はない。リヒテルヴェニアに会いに来た理由は、あの男の香りによって引き起こされた体の異常を報告するためだ。
「さっきまでここにいた患者。あれは何者だ? 人族のスカーレットであるようだが、どうにも不可解だ。アイツのフェロモンを少量浴びただけでこれまで一度も芯を持ったことがなかった俺が、欲に飲まれた。自慰しなければ治まらないことなんてこれまでなかったというのに……」
「へェ、勃起した上に抜いたのか」
「悪いか」
「いいや、イイことだ。夢精の記憶もねェとかいうからまさかと思ったが、ちゃんと精通はしてるってことだろ。……ただ、……フン、そうか……」
リヒテルヴェニアはアダマスの質問には答えず、相変わらず何か考え込みながらポツポツと独り言を呟く。訝しげに目を細めるアダマスを他所に、リヒテルヴェニアは不意に山のようなカルテが乗った机へと向かい、頂上の一枚を手に取った。
「確か、テメェは性病持ってなかったな?」
「性行為の経験はないと言ったが?」
「俺はなにも梅毒の話だけをしてるわけじゃねェ。挿入行為は無くてもうつるモンはあんだよ。……っていうのは今はいい。無いならいんだよ」
勃起しないと相談しに来ているのに、性病なんてどこでもらうのだとアダマスは眉間に皺を寄せるが、リヒテルヴェニアは早々にその話を切り上げる。自分で聞いておきながらなんなんだとアダマスは胸の中で悪態をつきつつ、何か考えがあるのだろうと続きを待つ。
「アイツについてだが、何者だって質問には答えられねェ。悪いが医者ってのは信用第一なんでね。患者の個人情報は渡せねンだ」
「……それで?」
「急かすな。……町の中心部、北東に『シャトン』という店がある。そこのイオルバって野郎に俺の紹介だと告げろ。そうすりゃテメェの会いてェやつに会えるように話通してやンよ」
シャトン。それは、アダマスが知らない店だった。ということは、店と言っても商人が関わるような、物を売る店ではないだろう。立場上、リヒテルヴェニアからはそれ以上の情報を望めない。「そこで働いているのか」と聞いても答えは得られないだろう。だがリヒテルヴェニアほど賢い男ならば意味のない行動を促したりはしない。そこへ行けば、必ず前進は出来る。
「ホラ、周辺の地図だ」
「あぁ、助かる。……いつ行けばいい?」
「そうだな、夕方までには言っておいてやるよ。晩飯食ってから夜にでも行け」
「了解した」
リヒテルヴェニアはその場で適当な紙に簡易的な地図を描くと、アダマスに手渡した。必要な情報のみが記された走り書き程度の簡単なものだったが、十分理解できる。
リヒテルヴェニアは「アーティに薬を頼んでくる」とアダマスを置いて先に診察室を出ていった。その後を追うためアダマスはベッドから降りるが、ふと思い立ってリヒテルヴェニアが見ていたカルテの山をこっそりと覗き込む。一番上には先ほどまでリヒテルヴェニアが見ていたのであろうカルテが乗っている。それには「アダマス・ヴェルデマキナ」と自分の名前が記されていた。
アダマスはそっとそれを持ち上げ、その直ぐ下にあったカルテを盗み見る。そこにはアダマスのものと比較すると、かなり厚く、年季の入ったカルテがあった。線が全て繋がっているような独特の文字で書かれたカルテは、取引の経験から様々な言語に通じているアダマスにも読めなかった。だが、何枚も連なった紙にびっしりと並ぶ文字と、唯一読み解ける日付からするとこのカルテに書かれた患者はかなり高頻度で診療所に通院し、多様な症状を訴えていることが窺えた。その最後のページ、黒いインクで記された日付は、今日のもの。アダマスはそのカルテを閉じ、記された名前を確認する。
「……テイルラ・ベルスーズ」
その名は、リヒテルヴェニアが零した名前と一致していた。アダマスの脳裏に浮かぶのは、あのスカーレットの男。リヒテルヴェニアは何も言わなかったが、恐らくこの『テイルラ』というのが、あの男の名前なのだろう。
アダマスは自分のカルテを元あった場所に重ね、診察室を出ていく。診療所の受付の裏にある調合室の方からはアーティとリヒテルヴェニアの話し声が聞こえていた。変わらず開け放たれたままの診療所の扉から温かい風が入り込んでくる。当然だが、あの男はとっくに診療所から去った後だった。
風に乗って、あの甘く柔らかい香りがするのは気のせいだろうか。
――テイルラ・ベルスーズ。
アダマスはその名前を反芻する。何故自分があんな初対面の相手を投げ飛ばすような男にこれほど執着しているのかは分からない。たった二度、数分会っただけだが、愛想も可愛げもない、口を開けば皮肉か嫌味、勝ち気で負けず嫌いと、良くない印象が積み重なっている。だが同じくらいに、跳ねるような軽い身のこなし、気分に合わせてコロコロと変わる表情、物怖じしない強かさ、そして、あの星空の瞳。美しい光と深い闇を同時に宿した紺碧。それら全てに、惹かれてやまない。そんな感覚をアダマスは知らなかった。
だからこそ、この感情を与えた相手。テイルラという人物にアダマスは手を伸ばさずにはいられなかった。
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