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第3話

 沿道の家々から零れる焔の光も届かない、薄暗い外れの建物。アダマスはその町の中でも珍しい二階建ての煤けた土レンガの大きな建物の前で立ち尽くしていた。フロアの天井が高めなのか、見上げるほどの高さであるその建物は、横にもかなり大きく面積が取られており、内部は広いであろうことが推察される。  だが、異様なのはそれだけの広さを持ちながら建物の窓は全て締め切られており、一切の生活感がないこと。それと、アダマスが立っている大通り側の面に入り口がないことだ。  アダマスは手に持っていたランプで改めてリヒテルヴェニアから渡されていた地図と見比べてみるが、それは間違いなくこの場所を示している。そういう店ならば、事前に言っておいてもらいたい。知識のない人間なら間違いなく無視するであろうこの建物がどんな商売をする場所なのか、入ったことこそないが、アダマスは知っていた。  アダマスはさりげなく周囲を見渡し、誰にも見られていないことを確認しつつ路地を曲がり建物の側面へ回り込む。明るい喧騒から逃れるように、建物の隙間で二つの燭台が蝋燭の灯りを揺らめかせていた。そこへ近づくと、主張しない程度のサイズの吊り下げ看板が目に入る。それは確かに〈chaton〉という店名を提示している。  黒い鉄製のレバーハンドル錠を下げ戸を押すとリンと、軽やかな鈴の音が響く。そこだけ切り取ると洒落た隠れ家カフェのようでもあるが、店内は当然そんな雰囲気ではない。入ってすぐの位置にある受付には垂れ幕が降りており、そこに座る相手は見えない。同様に、向こうからも客の顔は見えないようになっていた。  外から見た通り、建物内はかなり広いようだ。一見すると宿のようになっており、灯った燭台によって微かに見える二階にはいくつも部屋が並んでいた。個人を隠すために暗くされている店内は薄暗く、気を抜けば転んでしまいそうだ。 「いらっしゃい。初めての人でしょ?」 「……」 「あぁ、心配しなくてもうちは一見さんお断りとかそんなんじゃないから。でもお客さん見たところ獣族っぽいけど、うちで良かった? うちは人族のスカーレット専門だから獣族の子はいないけど……まぁ一夜の遊びに種族なんてどうでもいっか」  まだ何も言っていないのによくしゃべる受付だ。話を切り出す隙が無い。これで風俗の受付が務まるのだろうか。いや、むしろこうして話が上手いからこそ務まるのかもしれない。取引でも、話はこじつけた者が勝ちだ。たとえ同意や納得は得られずとも、丸め込んで「はい」と言わせればいい。と、そんな商売の勉強をしにきた訳ではない。 「指名とかある? 一応うちにいる子たちの名表がそれだよ。もうお客取ってる子とか予約入ってる子がいるからみんな開いてるわけじゃないけど」  受付は垂れ幕の隙間から机の片隅にある木板を指差した。そこにはこの店に務めているスカーレットたちの名前と性別、年齢、それと容姿の特徴が記されていた。男のスカーレットと女のスカーレットは大体半分ずつくらいで、年齢層は比較的若い。アダマスは軽くその名表に目を通す。その中に、探した名前はなかった。 「イオルバという男はいるか?」 「うん?」 「……アルモンド医師の紹介だ。話は通していると聞いたが」 「名前は?」 「アダマスだ。アダマス・ヴェルデマキナ」  あまりこういった店で貴族が名を名乗るのは控えるべきではあるが、今回ばかりは仕方ない。受付はあれだけ回していた舌を止め、急に静かになる。幕が隔てた向こう側で何かしているのか、ガタと物音がした。すると、音と同時に受付のすぐ隣の壁が浮いた。ただの壁だと思っていたそこは、向こう側からのみ開けられる隠し扉だったらしく、人が一人通れるくらいに壁が向こう側に開く。 「入って」  唖然としているアダマスに、受付の声が届く。声に従い、手にしていたランプで照らしながら隠し扉を抜ける。そこは受付の内部と繋がっており、思いの外広さがあった。普通の民家の一室ほどのそこには、受付業務を行うカウンターの他にも人一人が生活できるほどの家具が揃っていた。  アダマスの後ろで、扉が再び閉じられる。振り返った先に立っていたのは、獣族の男だった。茶トラ模様の猫の獣族である男はしっかり扉を閉じた後、アダマスを振り返るとまるで品定めでもするかのように鋭い目でアダマスを隅々まで観察してくる。 「なんだ、お前は」 「なんだも何も、俺がイオルバだよ。アンタがセンセーの言ってたアダマスサン? ってことだよね? 本当はアイツのとこ連れてく前にもうちょい色々聞かなきゃいけないんだけど、まぁセンセーの紹介なら別にいっか。一応確認しとくけど、行為の強要はもちろん、暴力は厳禁。それと、アイツのことは口外しないこと、いいね?」 「……分かった」  イオルバと名乗った猫の男の言葉にとりあえず頷いたものの、正直、よく分かっていない。強要や暴力が規制されているの当然のことで理解できる。だが口外しないこととはなんだ。そもそも、名表に「テイルラ」という名はなかった。ここにいるのは、本当にテイルラ・ベルスーズなのだろうか。  疑問はあるが、まるで知っている前提で話すイオルバに知らないという素振りを見せると追い出されそうな気配を感じ、アダマスは疑問を飲み込む。舌こそよく回っているが、イオルバは鋭い警戒の気配を纏っている。下手なことを言えば、彼の言う「アイツ」に会えずじまいということも有り得る。大人しくしていれば、ひとまずあの男に通ずる誰かの下には案内してもらえるはずだ。疑問をぶつけるのはそれからでも遅くはない。 「んじゃ、俺についてきなよ。暗いからすっころばないでね」  ひらりと身を返したイオルバは自分用のランタンを手に歩き出す。向かう先は、室内に設置された下へ向かう階段だった。この場所は一階であるはずだ。建物も特に丘の上や坂の上に建てられているわけではなく、平地に建てられていた。ということは、あの階段が繋がる先は地下となる。てっきり倉庫にでも繋がっているのだろうと考えていたのだが。  疑念はあったが、ここで立ち止まっていてもどうにもならない。先に木製の階段を軋ませながら降りて行ったイオルバを追いかけて、アダマスも地下へと向かう。覗き込んだ地下は深淵のように暗い、ということはなく、点々と灯ったランプがしっかり周囲を温かく包み込んでいた。土壁を掘って作っただけの地下を想像していたが、そんなことはなく寒さを防ぐために何層にも木の壁が張られており、十ほど階段を下りた先には上の階となんら変わらない廊下があった。  シンとした廊下を、イオルバはコツコツと前に進んでいく。その廊下にはランプを設置するための燭台がいくつかあるだけで、他のものは何もない。ただあるのは、奥の突き当りにある、扉のみ。地下には他の部屋はなく、ただ一室だけが忽然と現れる。イオルバはその扉の前に進み、コンコンと二度ノックをする。 「テイルラ? 俺だよ」 「はーい。入っていいぞ」 「じゃあ失礼しまーす。……ほら、早く入りなよ」 「あ、あぁ……」  イオルバに促され、アダマスは取っ手に指をかける。たった今、イオルバは間違いなく部屋の中にいる相手を「テイルラ」と呼んだ。ということは、やはりここにいるのはテイルラ・ベルスーズに間違いない。自ら会いに来たはずだが、いざしっかり顔を突き合わせるとなると少しだけ緊張してしまう。アダマスは体内を駆け抜けたあの時の衝動を飲み込み、意を決して、扉を開く。 「いらっしゃい。先生の紹介なんて初めて……って、あぁっ! お前!」 「なっ……、お前……まさか、」  扉の奥は広々とした一室だった。炎の灯った暖炉の火が明るく、部屋を温もりで包んでいる。そんな広い部屋の真ん中に置かれた大きなベッド。そこに座っていたのは、間違いなく、あの男だった。

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