7 / 52

第6話

「あれ? アダマスサン? 早かったね。もういいの?」  テイルラの部屋を離れ、来た道を戻ったアダマスに声をかけたのはイオルバだった。退屈そうにカウンターの前で肘を突いていたイオルバはアダマスが階段を上ってきたことに気づくと顔を上げ、意外そうに目を丸くした。 「あぁ、今日は、いい」 「そっか、アンタがいいならいいけど」  イオルバは細長い尾をゆらゆらと揺らしながら、またしても品定めをするような視線をアダマスに向けてくる。テイルラを抱いてこなかったことがそんなに意外なのだろうか。アダマスは居心地悪そうにコートを着直し体を隠すと、軽く咳ばらいをする。入ってきた隠し扉から出て行こうと扉に手をかけた時、再びイオルバが声をかけた。 「アダマスサン。今度ここに来るときはそういう格好しない方がいいよ。ボロを着ろとは言わないけど、そんなん着てたら分かる人間には一発でアンタが金持ちだって分かっちゃう。まぁ火遊びも貴族の嗜みで娯楽ではあるけど、たまにならまだしも、頻繁に入り浸ってるって思われるのはよろしくないんじゃない? それにもし貴族サマのお気にの子がうちにいるなんて広まったら、うちも困るんでね」  イオルバはさらに「今日はセンセーのツケだからお代はいらないよ」と付け加え、アダマスはそういえばここは娼館だったと思い出す。イオルバの手元の帳簿を盗み見ると、確かに『アルモンド医師より領収済』という記載があった。その隣に記載されていたテイルラの値が見て、アダマスは微かに眉をひそめる。その値は、決して安くない、むしろ高い。  侯爵家の人間であるアダマスにとっては払えない金額というわけでなく、「まぁこのくらいならいくらでもだす」と感じる程度の値だったが、庶民にとっては大金であろう額。持ち合わせの少なかったアダマスは密かにリヒテルヴェニアに感謝しつつ、イオルバに「了解した」と一言返し、帰路についた。  すっかり日の落ちた夜の風はアダマスの火照った頬を冷ましてくれる。シャトンに向かっている時には団欒の黄色を漏らしていた家々は灯りを消し、シンと静まり返った町はすでに眠っている。澄んだ夜の空気を吸い込むと、体の芯から冷えていく。アダマスは空気の代わりに体内に残ったテイルラの香りを吐き出す。それでもまだ身体にしみこんでいるような感覚がある。スンと鼻を動かすと、自らの衣服からあの香りが漂っているような、そんな気がした。  見上げた空には、星が瞬いている。空気の澄んだこの町では、より星空が美しく見える。決して、決してテイルラの瞳を思い出すからではない。断じて。アダマスは西区に位置する住宅街を抜け、さらに少し離れた位置に建てられた別宅へと歩みを進める。  ヴェルデマキナ家が地方視察を行うために建てたこの別宅はミラビリスの中で最も大きな建物と言っても過言ではない。町で唯一の三階建ての大豪邸。本宅には劣るが、十分な大きさであり立派な屋敷である。  これまで、ミラビリスはヴェルデマキナ侯爵家の領地でありながら血縁者はこの町に住んではいなかった。町の管理そのものは侯爵家縁戚の子爵に任せ、領主として侯爵家に代わり町を統治させていたのだ。  子爵はミラビリス中枢の屋敷に住んでいるため、アダマスが来るまでは主人不在であったこの屋敷。誰も管理をしていなければ、当然塵や埃で満ちた廃墟となってしまう。そのため、ヴェルデマキナ家は不在時の別宅の清掃と管理をこの町に住む人間に任せていた。 「お帰りなさいませ、アダマス様。遅くまで大変でしたね」 「……あぁ、起きていたのか。モズ」 「主人の帰りを待たずに床に入る使用人がおりますか」  屋敷の戸を開いたアダマスを出迎えたのは、初老の人族の男だった。彼、モズはかつてヴェルデマキナ家本宅の使用人だった男である。年を取り、バトラーの役を降り、故郷であるこの町へと戻る際に別宅の管理を託された人物。本宅で下級使用人を統括する「バトラー」という地位にいたモズはヴェルデマキナ家からの信頼も厚く、屋敷を一任するに値する男だった。実際、アダマスが訪れた屋敷は清掃が行き届いており、とても数年主人と呼べる存在がいなかった屋敷とは思えない。  モズはアダマスからコートを受け取り、それを両手で抱える。だが、それだけ体に寄せてもモズの表情が変わることはない。あの香りを感じるのはやはり自分の気のせいだったのだろうか。 「すまない、モズ。そのコート、明日にでも洗濯してもらえるか」 「はい、承知しました。フブキに伝えておきます」 「頼んだ。俺は今日は疲れたからもう休む、お前も休め。……あと、今後また夕飯後に外出することがあるかもしれんが、わざわざ待つことはない。お前も年だ。あまり無理をするものではない」 「お気遣い痛み入ります。しかし、これがわたしの仕事でありますのでお気になさらないでください。では、お言葉に甘え、本日はわたしも休みます。おやすみなさいませ」  モズは深々と頭を下げると、屋敷の二階にある使用人室へと歩いて行った。その背を見送った後、アダマスは人知れず溜息をつく。モズには当然「風俗に行ってくる」とは言っていない。恐らく仕事に行ってきたと考えているのだろう。真面目なのは良いことだが、隠れて娼館に行った帰りに出迎えられると罪悪感のようなものが芽生える。気にせず休んでいてもらった方が何倍もマシだ。  アダマスは階段へと足をかけ、寝室のある三階へと進む。執務室と隣接した寝室は、貴族の屋敷なだけ相当な広さがある。広々とし過ぎていて逆に落ち着かない。  アダマスは眠る前にやりかけていた簡単な書類仕事を終わらせておこうと執務机の前に腰かける。ペーパーナイフを手に、届いた手紙を順に開封していく。それからサインの必要なもの、不要なもの、また後程確認するもの、保管しておくものと振り分けていく。  そんな単純作業の最中にも関わらず、アダマスの脳裏には延々テイルラの肢体が浮かんで仕方ない。意識を逸らすために視線を向けた先では、星空がアダマスを見つめていた。無意識に、アダマスはその星空へ手を伸ばしていた。  ――触れたい。  あの星空に、触れたい。柔らかい肌、揺れる耳、しなやかな肢体、紺碧の瞳。すべてが、アダマスの奥を掴んで離さない。  そうして、アダマスは二十余年生きてきて初めて自室で自慰をすることになる。それは人生で二度目の自慰。奇しくも、二度ともその妄想の材料は同じ男。記憶の中でロップイヤーを揺らす、混血のスカーレット。  テイルラ・ベルスーズ。

ともだちにシェアしよう!