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第9話

 次はもう抑えられない。次はもう止まれない。そんな自信がある。彼のフェロモンを利用するという考えは一切ない。ただ純粋に彼の身体に惹かれて仕方ない。あの眼前に広がった美しくしなやかな白い縁を持つ肢体を、この手で捩らせたい。あの甘い蜜の香りで、この肺を満たしてしまいたい。  そう、この風が運んでくる花の香のような甘い香りで。 「っ、!」  ぼんやりと歩いていたアダマスは咄嗟に目を見開き慌てて周囲を見渡す。忘れもしないあの香り。それがどこからか香ってくる。  近くにテイルラがいる。  そんな本能的な確信を持ったアダマスは行き交う人並みの中であの背格好を探す。その視線の先、アダマスがいる場所とは反対側の露店。人の流れの反対側に、見覚えのある背中を捉えた。微かに汚れた、あまり質の良くないグレーのローブで頭をすっぽりと覆ったあの背中。片手に数本の切り花を持ったその背中は、隣に背の低い別の男を連れていた。そちらは顔を隠すような服装ではなく、どこにでもいる青年のようだった。ただ、周りと違うのはその目鼻立ちが子犬のように愛らしい表情をかたどっていること。 「なっ、危ない!」  直後、アダマスは声を張り上げる。その声に二人が反応する前に、道行く男の中の一人がその愛らしい顔の青年の肩を掴んでいた。そのまま青年を店先で押し倒したのは、一人の獣族。獣はすでに欲情し紅潮しており、驚いて目を見開く青年へと手を伸ばす。  平和な露店の前で起こった暴力的な行為に周囲に悲鳴が木霊する中、アダマスは反射的にそちらへと向かおうとするが立ち止まる人波に阻まれ足が進まない。焦燥に駆られるアダマスが目にしたのは、獣族の手が青年に触れる前にその体を引き剝がし、力強く殴り飛ばす灰色だった。  彼は手に持っていた花束を投げ飛ばし、躊躇いなく自分よりも大きな獣族に果敢に殴りかかっていった。強い一撃だったが、スカーレットのフェロモンにあてられた獣族はその程度で飛ばせない。獣族はすぐさま身を起こすと今度は立ちはだかった対象に向けて襲い掛かろうとする。だが、二度目の爪は届かず、獣族は周囲の男たちの手によって羽交い絞めにされていた。 「馬鹿、落ち着け! 相手は人族のスカーレットだぞ!」 「そうだ! もしこんな一度の過ちであの子が混血の子でも孕んだらどうするつもりだ!」  男たちが獣族に向かってがなり立てる。その言葉に対して、フードの内側がほんの少しだけ動く。あそこは、確か耳の先があった位置。固く拳を握りしめた表情はフードに隠れて見えない。しかし、あれが「テイルラ・ベルスーズ」であると、アダマスは確信していた。 「混血なんて……! あんな存在、つくるものじゃない!」  親の都合で短命と定まった子を産むべきではない。  それは、悲劇的な運命を背負って生まれてくる「混血種」という存在への共通認識。人にも獣にもなりきれず、不安定な遺伝子によって微かな瘴気も毒になる。そんな、弱く、儚い存在。  混血の子が差別されることはないが、分かっていながら「不幸な子」を作った親は白い目で見られる。気持ちが通じている異種族カップルでも、子は作らない。それは子どものための一つの愛の形であり、子を儲けないことを条件に異種族のカップルは黙認されている面もある。 「……テイルラ」  アダマスはポツリと彼の名を呟く。口々に混血種の弱さを訴えることで獣族を止めようとする人々は、目の前にいる男がその混血種当人であることに気づかない。悪意のない言葉の山が、テイルラの眼前に積もっていく。「弱く」、「不幸な」、「悲劇の子」。誰もその言葉に異を唱えることはない。アダマス自身も、混血種という存在に対してはそんな印象を抱いていた。それが、当たり前だった。  テイルラは何も言わずに身を翻し、座り込んでいた青年の傍らに膝を突く。 「……帰ろう、立てるか? ごめんな、オレのせいで」 「いえ……テイルラさんのせいじゃないですよ。ボクが外出したいなんて言ったせいです」  小さな声が、聞こえのいいアダマスの耳に届く。やはり、この香りはテイルラのものだったのか。テイルラがスカーレットらしからぬ容姿をしていたがために、あまり鼻の利かない種類の獣族はその隣にいたいかにもスカーレットらしい容姿の青年がフェロモンの発生源と誤解し手を出した。テイルラという大柄なスカーレットも存在していると知っているならいざ知れず、知らなければあの獣族でなくとも勘違いしていただろう。  テイルラは青年の手を引き立ち上がらせると、その場から逃げるように立ち去っていく。二人を止めようとする者は誰もいなかった。むしろ早く逃げるようにと道を開けている。スカーレットに対して差別意識のある地域も少なくないが、この町ではそんなことはないらしい。  テイルラのフェロモンに絆され発情していた獣族が連れの友人によって「頭を冷やせ」とこの場を去ってしまえば、町はいつもの表情に元通り。小さないざこざなど忘れたように、平凡な日常に帰っていく。  アダマスは一人、先ほどテイルラが投げ捨てた花束を拾い上げる。鮮やかな花弁を纏った愛らしい花束は、地に落ちてしまったせいか多少散ってしまっており、軽く萎れていた。その花は微かに甘い蜜の香りを纏っている。それは果たして、この花の蜜の香りか、それとも数分前までこれを持っていた男から移った香りだろうか。テイルラたちが去っていった道をアダマスは一人見つめる。  彼は、テイルラは何を思っていたのだろうか。  立ち尽くし、強く拳を握っていたあの姿が離れない。

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