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第10話

 頭上で猫が首で鳴らすような、小さな鈴の音が響く。リンとなったその音は相も変わらず薄暗い室内に溶けていく。路地に差した月明りを遮るように扉を閉じ、暗がりの中で、アダマスはすぐ隣で揺れる燭台に向き直る。垂れ幕で隔てられた向こう側からは、昨晩と同じ声が聞こえてきた。 「いらっしゃい。今日はどの子にする?」 「テイルラ以外に用はないが?」 「もー、冗談じゃん? そんな怒った声出さないでよ」  垂れ幕の向こう側でイオルバがケラケラとからかうように笑っている。「何がおかしい」と怒鳴りたくもなるが、そこはグッと堪える。こんな静かな場所に怒声は似合わない。イオルバは一言「待ってね」と言うと、裏口を開くために受付を立った。程なくして、壁が外側に浮き上がり、イオルバがそこからひょっこりと顔を出しアダマスを手招きした。その手に従って、アダマスは素直に受付へと立ち入る。 「おっ、ちゃんと違うの着て来てくれたんだ、助かるよ」 「……テイルラは?」 「そう急かなくても逃げたりなんてしないって。部屋にいるよ、ただちょっと昼間に怪我しちゃったみたいでね。あんまり元気がないんだよね」 「そうか、……平気なのか?」  イオルバの発言に対し、アダマスは決して表情を変えずに相槌を打つ。まさかテイルラを心配しているなどとイオルバに悟られないように。昼間、というとあの時だろうか。それともあれから娼館に戻るまでの間にまた襲われでもしたのだろうか。だが「帰れ」と言わないということはそこまで大きな怪我ではないのだろう。 「……」 「……なんだ」  不意に黙り込んだイオルバが首を体ごと傾けて、一人思案にふけるアダマスを覗き込んでくる。その表情は意外そうに目を丸くしたもの。驚かせるようなことを言った覚えがないアダマスは、イオルバの視線を居心地が悪そうに見下ろす。暗所であるため拡大したイオルバの丸い瞳が、蝋燭の火を宿し揺らめく。その黒眼に奥に潜む感情が読めない。 「……アダマスサン、そういうのちゃんと伝えた方がいいよ」 「どういう意味だ?」 「言葉通りの意味だよ。ねぇ、アダマスサン? 確かに商人っていうのは、……貴族っていうのはボロ出したりしないように余計なことを言うもんじゃないのかもしんないけどさ、ここにいるのは商人でも貴族でもない。気を張る必要はないよ」 「…………」 「だからさ、そういうのは俺にじゃなくて、テイルラに伝えてあげなよ。あ、テイルラの部屋は覚えてるよね、迷う道もないし。好きに行ってくれて構わないよ、俺はここにいるから。……不器用でも何でもいいから、気遣ってみたりしたら喜ぶと思うよ。アダマスサンが優しい人だっていうのは、その手のもので分かるから」  イオルバはそれだけ一方的に告げると、また垂れ幕の前、受付に腰を下ろしこちらから視線を離した。アダマスはその背中を数秒見つめるが結局何も返す言葉が浮かばず、テイルラの部屋へと繋がる階段へと足を伸ばした。  昨夜と同じ燭台の並んだ廊下を進みながら、アダマスは詰まっていた空気を吐き出す。イオルバの言葉の真意は分からない。確かにアダマスはこのような店に来るのは前回のが一度目で、これがまだ二度目。緊張、はしているのかもしれないが、気を張っていたつもりはなかった。妙に親しみやすい振る舞いをするイオルバの前ではむしろ気が抜けてしまうほど。アダマスの感情が強張るのは、唯一。  そういえば、同じようなことを昼間にリヒテルヴェニアにも言われていた。「ちゃんと腹割って話してみろ」「ちゃんと伝えてみろ」。二人分の言葉がアダマスの頭の中で蟠る。  ただ一人、テイルラの前では余裕が保てない。  動揺を隠すためについ片意地を張ってしまい、素直な言葉を紡げない。そのせいで無意味に衝突してしまった。二人の言う通り、感情的にならずにテイルラが生まれ持った「混血のスカーレット」という特殊な性事情を黙って聴いていれば、少なくとも昨晩は声を荒らげる必要はなかった。  突き当りに扉が見える。アダマスはふと右手のものを持ち上げ、自らの視線の高さまで持ってくる。その手にあったのは、鮮やかな花弁を揺らした花束だった。あの時の花は花弁が崩れてしまっていたから、花屋に立ち寄り代わりの物を用意した。視界を極彩色で彩った花々は、可憐に綻んでいる。  扉を叩く前に、アダマスは大きく深呼吸し、純粋な花の香で自分を落ち着かせる。テイルラは決して自らの意思であのフェロモンを撒いているわけではない。誰かを誘っているつもりは微塵もない。だから香りがするからと言って期待してはならない。抱きたいという気持ちは、押し殺せ。そう自分に言い聞かせ、アダマスは扉をノックしようと手をあげた。 「ドーンッ!」 「はっ? ぉぶッ!」 「あっはっは、情けねぇ声! こないだのお返しだぞー」  瞬間扉はアダマスの顔面にぶち当たる。鼻先に鈍い痛みを覚えるアダマスの耳に届くのは、愉快そうに笑うテイルラの声だった。元気がないのではなかったのか、と思いつつアダマスは鼻先に手を当てる。ぶつかりはしたものの、思い切り衝突したわけではなく軽く衝撃があった程度であったため特に鼻血などは出ていなかった。 「お前、俺じゃなかったらどうするつもりだったんだ」 「ん? お前以外にしないよ」 「そうじゃない。他の客だったらどうするんだと言っているんだ」  昨晩はリヒテルヴェニアから言われていただろうが、今宵は特に誰にもシャトンに行くとは伝えていない。窓から見えたのならいざ知れず、この地下の部屋ではアダマスが訪れたことは知りようがないはず。扉を開けた先にいるのがアダマスと確定するはずがない。だというのにまるでアダマスだと確信していたように、テイルラは扉を開けた。  テイルラはアダマスに言われて初めてキョトンと目を丸くする。それから数秒の沈黙が二人の間に流れ、突如テイルラは部屋の中に身を引っ込め、ついでに扉もバタンと閉めてしまう。「は?」と無意識に吐き出したのはアダマスだった。 「おい、閉めるな」 「あー、ちょっと今取り込み中だから待っててよ」 「嘘を吐け、取り込み中のヤツがすることか。開けろ」 「せっかちだな、早漏なの?」 「誰が……! っ、悪いがそういう時間稼ぎには乗らん。さっさと開けろ、お前は客をいつまでも廊下に締め出すつもりか?」  扉一枚が隔てた向こう側から聞こえてくる煽り文句に、思わず言い返してしまいそうになるのを寸でで堪える。昨日までのアダマスだったならば、間違いなくここから口論を始めていただろう。アダマスの頭を過ったのはリヒテルヴェニアとイオルバの言葉。そうだ、誰も喧嘩をしにきたわけではない。  アダマスが乗ってくると考えていたのか、テイルラは思わぬ応答に言葉を詰まらせていた。それから間もなく、扉がカチャリと音を立てて微かに開く。アダマスはその隙間に指を入れ、扉を開く。その向こうには扉に触れていない方の右手で反対側の己の垂れた左耳を掴み、頬と口元を隠すテイルラの姿があった。ふわふわとした柔らかな毛を顔に触れさせ長い赤褐色で顔を覆う、その隙間から見えたテイルラの顔は朱色に染まっていた。

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