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第16話

 四日後。  雲一つない美しい青空の下、アダマスは隣にテイルラを連れて邸宅の前に立っていた。町の喧騒から離れた穏やかな郊外で、澄んだ風が吹き抜けていく。耳を隠すための灰色のローブの下で、丸く見開かれた目が邸宅を見上げている。同時にポカンと口を開けて、テイルラはアダマスと邸宅を交互に見る。 「これ、お前の家だったの? 王様が身を隠すための隠れ家とかじゃなくて?」 「なんだそれは、どう妄想すればそんな飛躍の仕方をするんだ。ここは俺の一族の別宅だ。国中にいくつもあるうちの一つで、これでも小さい方だな」 「小さいって……、あーあ、オレずっと王族の隠れ家だって思ってたのに」  予想が外れたテイルラは不服そうに頬を膨らませるが、アダマスが知ったことではない。アダマスが来るまでこの邸宅は長年主が不在であったため、町中で様々な噂が飛び交っていることは知っていたが、そんな夢のような想像の出汁にまでされているとは。モズに言って、もう多少ヴェルデマキナ家所有の物件であることを前面に押し出させるべきだろうか。  アダマスは手に下げていた荷物を軽く持ち直し、庭へと繋がる門を開く。アダマスの片手を塞いだ荷物はすべてテイルラの物だった。一週間ここに滞在するための所有物。と言ってもテイルラはそこまで着替えの類は持ち込んでおらず、荷物のほとんどが薬で埋め尽くされていた。その他、足りない荷物は随時シャトンの受付にいたイオルバが持って来るらしい。「必ずテイルラが身に着けるものは清潔な場所に置くように」と強く言われたことを思い出す。  ついでにリヒテルヴェニアには「体調を崩したら必ず診療所に連れてこい」と念を押され、アーティには「薬は必ず決められた時間に定まった量を飲ませなさい」と何度も言われた。まるで幼い子どもを預ける母親のような連中だ。だが、それだけテイルラが大切にされており、大切にしなければ取り返しのつかない事態になるということでもある。テイルラを預かるまでの三日間、アダマスはテイルラのことをよく知る三人に留意すべきことを片っ端から叩き込まれた。当の本人は邸宅をあちこち見渡し、そわそわと落ち着きがない。本当に子どもを預かったような気分だ。  アダマスが門を開けるや否や、ひらと先に敷地内へとテイルラが傍らをすり抜けて行く。その時、アダマスは密かに鼻を動かす。微かにいつものあの香りが、テイルラの甘いフェロモンが宙に舞っている。だが、その香りは以前ほど強くなかった。  四日前に抱いたあの日から、テイルラのフェロモンは弱くなっていた。リヒテルヴェニア曰く、あの日一日でかなりの量のフェロモンを放出し、心理的満足感を得られたことも相まって落ち着いているのだろうとのことだった。四六時中あの強さのものを巻き散らかされ、屋敷内でも一日中勃起してしまうのではないかということも懸念していたが、どうやら杞憂に終わったらしい。 「なぁアダマス? 今日はお屋敷案内してくれるんだよな」 「お前がそれで良いなら構わんが……、それはデートか?」 「うん。お互いの家に行くことをおうちデート、って言うんだって店の子が言ってた」 「なんだそれは……」  あの日、テイルラが発した「デート」という単語。その真意が読み取れず、「は?」と間の抜けた声を出してしまったことは記憶に新しい。どんな無理難題を突きつけられるものかと身構えていたというのに、その抽象的な願いにアダマスが訝しげな表情をする一方、にこにこと笑っていたテイルラの顔が思い出される。  デート、というと恋仲にあるカップルが逢瀬を重ねる、という意味だとアダマスは受け取った。だからこそ、アダマスは困惑したのである。一方でテイルラはそこまで深く考えていないようで、ただただ単純に「二人で過ごすこと」という意で用いていた。  告白でもされたのかと思春期の少年のように戸惑うアダマスに対し、テイルラは「そういう意味じゃないぞ童貞」と罵りやたら冷ややかな目を向けた。「もう童貞ではない」と言い返したアダマスを笑いつつ、微かに頬を朱色にしていたテイルラの意図は結局分からなかった。  だが、ただ傍にいてやるだけで一週間買われて欲しいという望みを受け入れてくれるというのなら安いものだ。アダマスはテイルラの希望に付き合うことにして「デートして欲しい」という願いを受け入れたのだった。 「ここで一週間過ごす代わりに、オレが襲われないように傍で守る。そういう約束だったろ?」 「そうだが、それは外出時だろう。屋敷は安全だ」 「じゃあ……今日のはエスコートの練習だよ」 「まるで俺がエスコートできないような言い方だな」  屋敷まで続く庭を歩くテイルラの表情は心なしかいつもよりも明るく見えた。事前にリヒテルヴェニアに体調も確認してもらったが、調子はかなり良いらしい。へらへらと浮かれた締まりのない笑い顔は警戒心の欠片もない。最初に出会ったときはあんなに敵意を向けていたのが嘘のようだ。  庭を抜け、アダマスは屋敷の戸を押し開く。テイルラは興味深そうにその扉が開くのを覗いていた。 「おかえりなさいませ、アダマス様。それと、ようこそいらっしゃいましたね、テイルラ様」 「あ、えっと、お邪魔します。テイルラです」  出迎えたモズが深く頭を下げるのに習って、テイルラもぎこちなく腰を折る。それから頭を上げたテイルラは同じく顔をあげたモズをジッと観察し始めた。屋敷には事前に二人の使用人がいることを伝えてある。存在に戸惑うことはないはずだが、熱い視線を送るテイルラにモズは不思議そうに首を傾げる。 「いかがされましたか?」 「あ、あの、もう一人の使用人さんって……」 「あらあらあらまぁまぁまぁ! もういらしてたの?」  エントランスホールの奥からバタンと勢いよく扉を開かれる。高い声をあげながらこちらへと向かってきたのは、美しい純白の毛を揺らす女性の獣族だった。白い狐の獣族、彼女がモズと共にこの屋敷を任せているもう一人の使用人である。 「え、えっと、」 「あらぁ、可愛らしい瞳ね。アダムちゃんの小さい頃を思い出すわぁ」 「……アダムちゃん?」 「おいフブキ……、客人の前でその呼び名は止めろと言ったはずだ」 「あなたは……、テイルちゃんね!」  白狐の使用人、フブキはぱたぱたと忙しなく駆け寄るや否やキョトンとしているテイルラの瞳を覗き込み、緩く微笑む。アダマスの言葉も聞こえているだろうに、当たり前のように受け流すフブキにアダマスは大きくため息を吐く。正しい使用人の姿勢を崩さないモズとは真逆の、まるでお節介な親戚のようなフブキ。彼女は昔からこうだった。生まれた頃からアダマスを知っていて、ちょうどアダマスが思春期に入る頃に本宅の仕事を辞めたためか、フブキの中でのアダマスはまだ十代そこらの子どものままらしい。もう二十四だと何度言っても聞きやしない。フブキにとってしてみれば、それでも若造なのだろう。 「アダムちゃんには酷いことされてない? なにかあったら、なんでもおばさんに相談してね? この子昔から口下手で、母君に抱っこも言えないような子でね?」 「そんな話テイルラにしてどうする……」 「あ、あの! お二人は、ここに勤めて長いんですか?」  フブキの長話スイッチが入ろうとした時、不意にテイルラが声をあげた。テイルラはひらと二人の前に歩み出て、真っ直ぐな視線を向ける。テイルラの瞳は、ただの世間話にしては真剣な目をしていた。テイルラの問いかけに、二人は顔を見合わせる。アダマスにも、その問いの意図は分からなかった。ただ、テイルラなりの話題作りだろうと思い、口を出さずに二人を見守る。 「そうですね、少なくとも十年以上はこちらでお仕事を頂いております」 「十年……、それなら、その、アストラ……、アストラ・ベルスーズを知りませんか?」 「アストラ……って……!」   テイルラがその名を口にした瞬間、モズとフブキの表情が変わる。穏やかな二人の瞳が、驚愕に見開かれていた。「アストラ」。アダマスは知らない名前だった。知っているのは、ベルスーズというファミリーネームのみ。テイルラと同じ名、つまりその名前の持ち主は。

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