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第18話

「それじゃあ、テイルちゃんはお母さんが仕事に行ってる間いつも一人で留守番してたの? えらいのね」 「そんなことないですよ。留守番って言っても、小さい頃は今ほど体が丈夫じゃなかったから、ほとんどベッドで寝てただけですもん」  屋敷の二階にある客室。テイルラを一週間預かるための部屋の前で、アダマスはぴたりと足を止める。頭部の丸い耳を左右に開き、扉の向こう側から聞こえる声に耳を澄ますと、そこにいる二人の声が聞こえた。フブキの声色はいつもよりも幾分か優しいもので、テイルラの声も警戒していないのか穏やかな声だった。しかし、テイルラはちゃんと敬語が使えたのか。アダマスの前では初対面の時から一貫してあの生意気な態度を崩さないものだから、てっきり礼儀を知らないまま生きてきたものとばかり思っていた。  そのまま部屋の前でアダマスはしばらく話し声に耳を傾ける。聞こえてくる会話は、本当にただの昔話に過ぎなかった。フブキはこの屋敷でのことを、テイルラは自宅でのことを、お互いに語り合う。聞いていくうちに分かるのは、アストラという人物が、使用人としても母としても、素晴らしい存在であったということくらい。話の中でテイルラが己の生まれ育ってきた環境について零さないだろうかと待ってみるが、テイルラがするのは他愛のない家庭の話。ここでアダマスが聞いていることを分かっているのではないかと思うほどには、テイルラは肝心なことは何一つ明かさない。どうして今娼館にいるのかということは勿論、幼少期に母親と過ごした家の場所すら有耶無耶にしていた。  ただ、その話の中に「父親」の存在が現れないことだけが汲み取れた。母親が人族、ということは獣族の父親がいるはず。テイルラにあの赤褐色のロップイヤーを遺伝させた兎の獣族の父親が。  ふと、アダマスの脳裏をとある獣族の存在がよぎる。そういえば、あの人は兎の獣族だった。 「フブキさん、続きはまた次にしませんか? オレお腹が空いちゃった」 「そうよね、ごめんなさい。つい話し込んじゃって」 「いえいえ、とっても素敵なお話を聞けて嬉しいです」  そんな会話と共に二人分の足音がこちらに向かうのに気づき、アダマスはハッと顔をあげる。盗み聞きしていたなんて知られるのはどう考えても印象が悪い。咄嗟にアダマスは向こうが扉を開ける前に、その扉を開く。  テイルラに与えられた客室は屋敷内でも一等のものだった。シャトンのテイルラの部屋もそこそこの広さがあったが、その部屋はそれよりも広い。リラックスし休憩するためのスペースと寝室の二部屋で構成されており、一般の家屋ほどの面積で絢爛な家具が揃っていた。本来は取引先などそれなりの爵位のある客人を通す客室であるが、他に客もいないため空いている。 「あら、アダムちゃん? どうかしたの?」 「む、いや、そろそろ食事にしないかと呼びに来たところだったが、不要だったようだな」 「そうね、ちょうど食事に向かおうとしていたところよ。でも来てくれて良かったわ、テイルちゃんのベッドのシーツ、まだ干したままだったの。先にそれを取ってくるから、テイルちゃんを任せてもいい?」 「あぁ、構わん」  アダマスが頷くと、フブキは傍らのテイルラをずいっとアダマスへと突き出し、「じゃあお願いね」と忙しなく客室を飛び出していく。そんなに慌てずともいいというのに。アダマスは慌ただしいフブキの背中が廊下を曲がって消えてから、視線をテイルラの方へと向ける。と、そんなアダマスにテイルラが向けていたのは、ジトッと細められた訝しげな目。思わずたじろぐアダマスを、テイルラは首を傾けながら居心地の悪い目を向けてくる。 「盗み聞きは趣味悪いな」 「誰がそんな」 「とぼけるなよ。部屋に来るまでの足音と、扉開けるまでに間がありすぎなんだよ」  言い逃れのしようもない図星に、アダマスはつい言葉を詰まらせる。テイルラの耳は飾りではない、ということか。通常人族の耳があるはずの位置に何もないのだから当たり前ではある。テイルラは人族はもちろん、獣族よりも優れた聴覚を持っていた。つまり、彼から音を隠そうなどということは簡単ではない。気付いていたならすぐに言えばいいものを。 「ふふ、安心しろよ。心配しなくても、お前が町の中で盛って追っかけ回してきたり、混血って知らずに怒鳴ってきたりしたことはもちろん、セックスは激しいのが好きだなんて、モズさんとフブキさんには秘密にしといてやるよ」 「それは謝っただろう! まさか……、お前それで俺の弱みを握ったつもりか?」 「弱みだなんて人聞きの悪い。オレは、きっとあの二人が知らないお前の顔を知ってるってだけだよ。なぁアダムちゃん?」  テイルラの意地の悪い顔がこちらを見ている。だからコイツの前で幼少期の呼び名で呼ぶなと、散々フブキに言っておいたというのに。「テイルちゃん」と言い返してやればいいのかもしれないが、恐らくテイルラはそう呼んだところでダメージはほとんどないだろう。羞恥するのなら最初にフブキにそう呼ばれた際にもっと何か反応して見せるはずだ。  アダマスは溜息を吐きつつ、「やめろ」とテイルラの頭を小突く。テイルラが余計なことを話そうと、あの二人はあくまで使用人である。主人の性事情をとやかく言うことはないだろう。そもそも二人はアダマスがこのミラビリスに飛ばされた理由も知っている。さらに言えば、テイルラにだけは身体が反応することも、彼で筆下ろしを果たしたことも。彼をここに呼んだ目的も、知っている。  しかし、ここでこうして話していても仕方ない。今ごろモズが食堂で正餐の支度をして待っているだろう。 「屋敷の案内は後でしてやる。飯に行くぞ」 「あ、あぁ、待って!」 「なんだ」  部屋の前から去ろうとするアダマスの手を、テイルラが慌てた様子で掴む。横目で背後のテイルラを見てみると、テイルラは伏せ眼がちになりポソポソと急に声量が下がる。 「あ、あのさ、オレもアダムって呼んでもいい?」 「……『アダム』なら構わんが、どうし」 「やったぁ! オレおなかすいた! ご飯行こう!」 「おい! 食堂はそっちじゃない!」  アダマスが肯定の言葉を口にした瞬間、テイルラはひらりとアダマスの背後を抜け出しぱたぱたと廊下を駆け抜けていく。その足取りは軽く、兎のように跳ねていた。一瞬だけ垣間見えたテイルラの頬が朱色に染まっていたのは、気のせいだろうか。それとも体調でも悪いのか。軽やかに弾む背中を見る限りでは、そんなことはないようだ。  数分後、あれはこれはと目移りするテイルラをほとんど引き摺るように一階の食堂へと何とか連れ込む。扉を開けた先では、案の定すでにモズが待機しており、何ならフブキも共に食事を並べていた。  ヴェルデマキナ本宅は住んでいる人間の数が多い分、正餐も豪華で肉や魚はもちろん、多様なパンに野菜、酒など豊富なメニューが揃えられていた。それを各々で食べ、余ったものが使用人へと回されていたのだが、貴族がアダマスしかおらず、使用人もモズとフブキしかいない別宅ではそうはいかない。そのため本宅と比較すると地味な正餐となるが、今日のメニューはいつもよりも手が込んで見える。モズとフブキの視線が明らかにテイルラへと注がれている辺り、理由は察しがつく。そして期待どおり、テイルラの瞳はこれ以上ないというほどキラキラと輝いていた。 「こっちへいらっしゃい? テイルちゃんはどれがいい?」 「え、あ、オレもいいの?」 「当たり前だろう。ほら、好きなものを選べ」 「……でも、ここの主人はアダムだろ?」 「主人? ……お前は客だ。そんなことは気にしなくていい」  テイルラがそんな配慮をすることが意外だった。テイルラは明らかにアダマスを下に見ているし、これまで存分に不敬を働いてきた。そんなテイルラが屋敷内での順位を気にするとは思わなかった。むしろ、自由で拘束を嫌いそうな振る舞いから、貴族の位の差に縛られた考え方を嫌っているのだろうと思うくらいだ。そうでないならテイルラは貴族の何が好かないのだろうか。 「アダムちゃんの言う通りよ。何が好き? おばさんがよそってあげるわ」 「好き……りんごとかオレンジとか……」 「主食を選べ」 「レタス」 「主食と言っているだろう」 「だってオレ、肉とか魚とかほとんど食べないんだもん」 「おや、そこは獣族の血が優先されるのですね……」  皿を持ったフブキの傍らに寄って行ったテイルラは、果実や野菜ばかりを指差していた。容姿はどちらかというと肉のようなガッツリとしたものを好みそうであるのに。食の好みは見た目にはよらないのだろうが、それでもそんな草食では栄養が偏る。実際、テイルラは繊細な体つきで腰は細く、無駄な脂肪ばかりか筋肉量も少なかった。  単純に、体に流れる兎の獣族の血がそうさせている可能性も十分有り得る話だ。これまでに他の混血種を知らないため、その体の造りがどうなっているかは分からない。内臓が人族のものと同じならばまだしも、それが兎のものであったなら肉が胃腸に負担をかけてしまう。  テイルラの様子を見ながらモズが微かに視線を伏せ、難しい顔をする。テイルラの好みを聞いて今後の献立を悩んでいるのだろう。アダマスは魚や野菜よりも肉を好んでいた。正反対の好みを合わせるとなると、メニューを決めるのも容易ではない。するとモズが悩んでいるのを見たテイルラが声をあげる。 「あ、でも、食べないってわけじゃないから……」 「言っただろう。お前は客だ、気をつかう必要はない」 「そうじゃなくて、その……、オレ、テーブルマナー? とか、分からなくて、しかも肉とか魚とかあんまり食べないから綺麗に食べられないし……」 「あらあら、そんなこと気にしなくてもいいのよ?」 「フブキさんたちが良くても、ダメ。せっかくこんなに綺麗に盛り付けてるのに、マナーも何もないオレが食べるのは作った人に失礼だと思うから、……? な、何?」  真っすぐな瞳で話すテイルラを前に、食堂は静寂に包まれていた。三人分の視線を浴びせられ、テイルラは狼狽し一歩後ろに引く。そのテイルラの隣でフブキが持っていた皿を机に置いた。  直後、フブキは勢いよくテイルラを抱き締める。 「ほぁぁッ! もふもふだ!」 「まぁ~ッ! どこまでいい子なのかしら! アダムちゃんにはもったいないわ!」 「どういう意味だ。全く、お前にテーブルマナーを期待するはずがないだろう」 「どういう意味だ!」 「あぁ……食事の席でバタバタしないでください、ほらフブキ!」  少し、テイルラの印象を履き違えていたのかもしれない。アダマスがそう感じるには十分だった。  たった数日で、アダマスは勝手にテイルラを知った気になっていた。だが、そんなのはすべて表面的なテイルラの姿に過ぎない。その紺碧の星空の裏に秘めた、テイルラの内面はまだほとんど知らない。ふと、リヒテルヴェニアの言葉を反芻する。「表情だけで何を考えているか分かるほどテイルラのことを知っているのか」。あの時と比べれば、少しはテイルラのことを知ったかもしれない。だが、それは「テイルラ」のことではなく、あくまで「混血種」の、「混血のスカーレット」を知っただけに過ぎない。  もっと、知りたい。  テイルラ・ベルスーズというその人が、どんな人間なのか。  何を思って生きてきたのか、何を思って生きているのか。  「触れたい」と焦がれていた感情は、アダマスも知らぬ内に「知りたい」という思いに変わっていた。

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